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平成30年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」(前期)第2回「近世広島の暮らしと自然を考える」

浅野氏入城400年記念事業 平成30年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」前期第2回「近世広島の暮らしと自然を考える」を平成30年6月30日(土)に開催しました。
その概要を簡単にご紹介します。

第2回「近世広島の暮らしと自然を考える」
講師:広島大学名誉教授 佐竹 昭さん

歴史講座前期第2回_1歴史講座前期第2回_2

概要
  • 広島城下にいたブタ
    天明2年(1782年)頃、広島に立ち寄った医師 橘南谿(たちばな なんけい)の「東西遊記」によると、城下町のそこかしこにブタがいるのを見て驚いたと記されており、天明8年(1788年)に広島を訪れた菅茶山も、そのユーモラスな姿を詩に詠んでいる。
    当時の日本ではブタを家畜として育て、食用にする習慣はなく、このブタは江戸時代に来日した朝鮮通信使に食用として提供するために、長崎から取り寄せ、余ったものを城下に放したことが起源のようである。
    ちなみに十二支の「亥」は中国や韓国では「ブタ」のことである。日本ではブタは珍しかったので野生のイノシシと理解したらしいが、ブタは元々イノシシが家畜化されてつくりだされたものである。
  • イノシシによる被害と対策
    城下に放されたブタが増えすぎたため、貞享2年(1685年)には「ブタ狩り」が行われ、捕獲された103匹のブタは、広島湾沿岸の浦々・島々に放された。その後、幕末までに城下のブタはいなくなったが、ブタが放された浦々・島々ではイノシシによる農作物の被害が問題となっていった。放されたブタが再野生化し、イノシシと交配したことが予想される。
    そのため島々では、藩の融資を受け、鉄砲を用いた臨時の大規模なシシ狩りや、柴垣を築いてイノシシを追い詰めて討ち取るなど、島という限られた空間の中でイノシシの根絶を目指して攻撃的な対策をとっていった。一方、陸地部では、長大なシシ垣(石垣や土塁)を築き、専守防衛に努める村もあった。シシ垣は全国各地に築かれ今も遺構が残る。スライドを用いて広島の事例のほか、主に西日本各地の事例が紹介された。
  • 沿岸部の人口増加と耕地の開発
    イノシシやシカによる農作物被害は、森林伐採や田畑開墾の進展などによる人間活動の活発化が、彼らとの緩衝地帯をなくしたことによるものと考えられる。
    正徳5年(1715年)から明治15年(1882年)の間に、旧広島藩領全体で人口が1.8倍に増加しており、なかでも沿岸部と島しょ部の人口増加が著しい。江戸時代後半には沿岸部や島しょ部での、村人による日常的な開墾が進んだことや、サツマイモの導入、廻船・造船業、船乗りや各地への出稼ぎなど、全国的な海運と産業の発展によって、稼ぎの機会を得たことによるものと考えられる。
  • 江戸時代後期の野生動物分布
    文化11年(1814年)、広島藩では藩領全般の地誌『芸藩通志』作成のため、村々の諸情勢を詳しく調査・報告させている。その中に、村で見られる獣類の記載があるものがある。ここから野生動物の分布を調べてみると、おおよその傾向ではあるが、沿岸部や島しょ部のイノシシがかなり駆逐されている。前述のとおり、沿岸部や島しょ部の人口増加と開墾の進展など、人間活動の活発化によるものと考えられる。

このように、江戸時代におけるイノシシやシカの被害は、人間による開発や開墾によって、鳥獣類が生息の場を奪われていったことによると考えられる。一方、現代のイノシシ被害の再来は、むしろ過疎化や高齢化、減反や林野の放置などによるものとみられ、人と自然との関わりの大きな変化が背景にあるとまとめられた。

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