畑耕一 -人と作品- 天瀬裕康(作家)

広島での文化活動


『ロビンソン・クルーソー』(銀の鈴文庫)
ダニエル・デフォー原作 畑耕一訳
(広島図書 昭和25年)
 やがて戦局は、日本に不利となる。激しくなる空襲を避け、畑は愛子夫人を伴い、昭和19(1944)年2月下旬に安佐郡可部町へ疎開した。疎開から間もなく、同年6月25日付「読売薪聞」に寄せた「お国自慢 広島」では、「自分にできることなら郷土文化面のためになんでも働く覚悟である」と書いている。
 畑の戦後の活動は、昭和20(1945)年12月、栗原唯一、貞子夫妻が中心となって発足した中国文化連盟への、顧問としての参加から始まる。同連盟主催の講演会で講師を務め、昭和21(1946)年8月に「中国文化」が創刊されると、これに寄稿を続けている。
 当時の全国的な傾向として、広島においても雑誌の刊行が相次ぎ、「中国文化」に先だって創刊された「新椿」(同年3月創刊)や「郷友」(同年6月創刊)、さらには児童教育雑誌「ぎんのすず」(同年8月創刊)のほか、「世代」(昭和24年11月創刊)などへ、畑は作品を寄せている。また、昭和21(1946)年秋に結成された「我等の劇団」では演劇指導にあたり、昭和30(1955)年8月から亡くなる直前まで、ラジオ中国の「たつのおとしご」を担当した。
 ただし、戦後に刊行された著書は、『少年時代小説 神変快剣土』(三幸出版社 昭和23年)、『ロビンソン・クルーソー』(広島図書 昭和25年)、『東洋工業と松田重次郎』(東洋工業 昭和26年)くらいだ。畑は可部に居を構えて以来、亡くなるまでの13年余の間に様々な出版物へ多くの文章を書いたものの、それを単行本の形で世に出す機会に恵まれていない。
 東京の知人へ宛てた葉書等から推測すると、終戦間もない頃の畑は、郷土広島の復興を見るまでは動かないつもりでいたようだが、各地へ疎開していた作家らが、都市機能と経済の回復した東京へ戻り、活動を再開させていた昭和20年代末になると、現状に対する焦りや、断ち切れない上京への意欲を抑えきれなかったようだ。
 表面的には、昭和23(1948)年6月の第2回ミス・ヒロシマ審査会の審査員を務め、昭和29(1954)年の新日本リーグ発足にさいしては、広島カープの二軍を広島グリーンズと命名するなど、地元文化人として様々な場へ顔を出しているが、本領はあくまでも作家である。
 昭和32(1957)年10月6日、上京の思いは果たされないまま、畑は胃がんのため広島赤十字病院で生涯を終えたが、退院後の創作の夢を病床で語ったと伝えられている。


畑耕一著作掲載雑誌
「中国文化」創刊号・昭和21年3月号
(畑耕一/著「一杯の番茶」掲載)

畑耕一著作掲載雑誌
「郷友」昭和22年6月号
(畑耕一/著「文壇え出た頃」掲載)

畑耕一著作掲載雑誌
「銀の鈴」第5学年 昭和23年10月号
(畑耕一/著「伝記 ある日の大石良雄」掲載)