畑耕一 -人と作品- 天瀬裕康(作家)

多方面での活躍


畑耕一
 東京日日新聞杜での畑は学芸部記者として、著名人の小説連載に関与した。志賀直哉の「暗夜行路」は大正10(1921)年の「改造」に発表にされたが、「東京日日新聞」への話もあったりして、文壇裏面史に名を残す。
 大正13(1924)年、畑は東京日日新聞社を退社し、松竹キネマに入社した。彼は歌舞伎を中心とした芝居全般への造詣が深く、記者時代から劇評を発表していたが、松竹キネマに入社以後は、現代劇映画の原作を書くようになった。「陸の王者」(監督/牛原虚彦 昭和3年)、「女性の切札」(監督/野村芳亭 昭和12年)などである。 この時期、日本映画はサイレントからトーキーへと移る過渡期にあたり関東大震災からいち早く復興を果たした松竹キネマにおいても、田中絹代や岡田嘉子、高田浩吉といった俳優陣を起用して盛んに映画が製作された。畑は、研究所長、企画部長を歴任したことから、多くの俳優を育てた。


『ヂャーナリズム論』
(日本大学芸術科講座 文芸篇)
畑耕一著
(日本大学出版部 昭和12年)
 松竹キネマと兼任して、畑は大学の教壇にも立っている。大正14(1925)年に明治大学の講師、昭和2(1927)年には同大教授となり、はじめは「文芸概論」を担当、のちに自らの実務経験を活かして、「ジャーナリズム研究」、「映画研究」を講じ、映画研究部顧門も務めた。また、日本大学にも籍を置いて、「演劇講座」や「ジャーナリズム論」を担当し、ほかに上智大学や早稲田大学などの講座や講演会へも招かれ、演劇論を講じることもあった。
 昭和10(1935)年頃から国民新聞社学芸部長として再び新聞社勤めを始めたものの、昭和15(1940)年に全ての職を辞して執筆に専念する。しかし、むしろ複数の役職を掛け持ちしていた松竹キネマ時代のほうが、作家としての充実期でもあった。
 雑誌への発表を中心にしていた畑は、松竹キネマ入杜を機に『戯場壁談議』(奎運社 大正13年)、『笑ひきれぬ話』(大阪屋号商店 大正14年)、『ラクダのコブ』(大阪屋号書店 大正15年)、などを出版した。映画の原作となる『棘の楽園』(博文館 昭和4年)、『毒唇』(先進社 昭和6年)、『女の切札』(春陽堂 昭和8年)などは長篇大衆小説だが、「少年少女譚海」に昭和2(1927)年4月号から連載した「剣魔白藤幻之介」など、少年小説や少女小説も多数発表している。博学に裏打ちされ、ユーモアに富んだ随筆は優れており、『觸角と吸盤』(交蘭社 昭和10年)に収められた「季題と茶話」は、季題から連想される短文を歳時記の形式でまとめたものだ。
 このほか畑は、蜘盞子の雅号で俳句をよくし、句集『露座』(素人社屋 昭和6年)や句集『蜘蛛うごく』(交蘭社 昭和16年)を上梓している。また多蛾谷素一の筆名で歌謡曲の作詞も手がけ、「浅草行進曲」(塩尻精八作曲 昭和3年)や「ザッツオーケー」(奥山貞吉作曲 昭和5年)を作っている。後者は流行し、映画にも使用された。昭和4(1929)年、広島市で開催された昭和産業博覧会に際しては、中国新聞社が制定した「広島市歌」(永井建子作曲)を作詞している。
 昭和15(1940)年、畑は全ての勤めを辞め、創作に専念する生活を選ぶ。戦争は拡大の一途を辿っていた。彼が日清戦争の銃後史として書いた『広島大本営』(天佑書房 昭和18年)は代表作の一つとなるが、これに付けられた「著者略歴」は、畑耕一研究に貴重な手掛かりを与えるものであった。また、大きな年齢差のある愛子夫人と結婚したのも、この頃であった。


「明星」大正11年5月号
(畑耕一/著「戯場壁談義」掲載)
表紙・本文

『広島大本営』
畑耕一著(天佑書房 昭和18年)