畑耕一 -人と作品- 天瀬裕康(作家)

出生と幼少の頃


少年時代の畑耕一
 作家・劇作家・評論家・俳人など、多彩な活動で広島の文芸に大きな影響を残した畑耕一は、明治19(1886)年5月10日、広島市堀川町(現・中区)で生まれた。
 生家は、畑平蔵を主人とする漆問屋「うる平」であり、仏壇製造に用いる漆のほか、金銀鎮鍮錫箔など仏具関連の金属や、絵具類刷毛・蒔絵筆等も商っていた。耕一はその家の嫡男であり、ここには終生のテーマに繋がる宿命的なものが感じられる。
 彼は幼時から、この世を超えた妖しいものに魅せられていた。紀田順一郎が回想から述べているところによれば、耕一は少年時代、お岩の仮面が置いてある玩具店に惹かれ、怖いと思いながらも、つい通わずにいられなかったそうだ。怪異におびえながら、怪異を愉しんでいたのである。この界隈には、どぶ川が流れ巡査駐在所や遊郭があり、あまり遠くない場所にお寺や墓地もあったというから、これは怪談作家・畑耕一の原風景となっていたに違いない。
 ところが小学校にあがったあと、一つの転機が訪れる。商家の嫡男たる耕一は、商業の本場である大阪で育てられるため、商都の某家に預けられ、府立師範附属小学校に転校した。その後は市立大阪高等商業学校に入って、その予科を終えている。
 ここまでは商家の嫡男の道を歩んだわけであり、大阪での生活は、後年、喜劇役者で脚本家でもある曾我廼家五郎との交流を生む基にもなったかもしれないが、小学校時代に生じた「怖れ」の感覚は大阪の「笑い」よりも強く、耕一の生涯に影響するのであった。