緑字は主な出来事
明治19年 | (1886) | 5月10日 広島市堀川町(現 広島市中区)に生まれる。 9歳の頃、大阪の某家に預けられ大阪府師範学校附属小学校に移り、 その後、市立大阪高等商業学校予科を卒業。 明治22年 大日本帝国憲法発布 明治27年 日清戦争・37年 日露戦争 |
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明治40年 | (1907) | 21歳 | 中国新聞「中国文壇」の投稿者グループ「詞友会」を結成、幹事となる。 この頃、第八高等学校第二科(工科)を中退、第一高等学校第一部(文科)に入る。 |
大正 2年 | (1913) | 27歳 | 「三田文学」2月号に処女作「怪談」を発表する。同6月号に「おぼろ」、翌年5月号に「淵」を発表する。 第一次世界大戦 この頃、東京帝国大学英文科へ進む。 |
大正 7年 | (1918) | 32歳 | 大学卒業後、東京日日新聞社に入社。学芸担当記者となる。 米騒動 |
大正11年 | (1922) | 36歳 | 「明星」2月号より「戯場壁談義」を連載する。(翌年8月号まで) 大正12年 関東大震災 |
大正13年 | (1924) | 38歳 | 東京日日新聞社を退社し、松竹キネマに入社。後に研究所長、企画部長を歴任する。 『戯場壁談義』(奎運社)刊行。 |
大正14年 | (1925) | 39歳 | 『笑ひきれぬ話』、『怪異草紙』(ともに大阪屋号書店)刊行。 明治大学講師となり、「文芸概論」を講ずる。この年、母死去。 |
大正15年 | (1926) | 40歳 | 随筆集『ラクダのコブ』(大阪屋号書店)刊行。 |
昭和 2年 | (1927) | 41歳 | 明治大学教授となる。 |
昭和 3年 | (1928) | 42歳 | 「浅草行進曲」を多娥谷素一名義で作詞(作曲は塩尻精八)。 初の普通選挙 |
昭和 4年 | (1929) | 43歳 | 中国新聞社制定の「広島市歌」を作詞。小説『棘の楽園』(博文館)刊行。 昭和4年 世界大恐慌・6年 満州事変 |
昭和10年 | (1935) | 49歳 | 随筆『触角と吸盤』(交蘭社)刊行。国民新聞社学芸部長となる。 昭和11年 二・二六事件・12年日中戦争 |
昭和15年 | (1940) | 54歳 | 松竹キネマ、明治大学、日本大学などの職を辞す。 昭和16年 太平洋戦争 |
昭和18年 | (1943) | 57歳 | 『広島大本営』(天佑書房)刊行。 |
昭和19年 | (1944) | 58歳 | 安佐郡可部町(現 広島市安佐北区)に疎開する。 |
昭和20年 | (1945) | 59歳 | 12月栗原貞子ら中国文化連盟結成、顧問として参加する。 ポツダム宣言受諾・終戦 昭和25年 朝鮮戦争 |
昭和26年 | (1951) | 65歳 | 松田重次郎の伝記を執筆、『工場生活七十年』刊行。 |
昭和30年 | (1955) | 69歳 | 2年にわたり、ラジオ中国(RCC)の番組「たつのおとしご」300余回を担当。 広島県文化財専門委員(無形文化財部門)を務める。 |
昭和32年 | (1957) | 71歳 | 10月6日 胃がんのため広島赤十字病院で死去。 翌日広寂寺(現 広島市南区)にて告別式。 |
広島市立中央図書館/作成