タイトル
05.民喜をめぐる人々

  原民喜は妻の貞恵をはじめ、多くの人々によって支えられ作品を遺しています。ここでは、その交友関係の一部をご紹介します。

妻 貞恵(旧姓 永井)
原民喜妻 明治44(1911)年〜昭和19(1944)年

「夏の花」
民喜の妻 貞恵
広島県豊田郡本郷町(現 三原市)生まれ。
 昭和3年、広島県立尾道高等女学校卒業。
 昭和8年、原民喜と見合い結婚。極端に寡黙で、人との交わりを得意としなかった民喜は、明るく利発で、自分の才能を信じてくれるこの妻の存在により、落ち着いた至福の時間を過ごすこととなる。



佐々木基一(本名 永井善次郎)
文芸評論家 大正3(1914)年〜平成5(1993)年


民喜の義弟 佐々木基一
 広島県豊田郡本郷町(現 三原市)生まれ。
 民喜の妻 貞恵の弟。
 中学時代から文学に親しんだが、姉と民喜の結婚が「作家」の存在を一層身近にさせた。東京大学在学中より、マルクス主義文学の研究会を続け、治安維持法違反で検挙される。卒業後は文部省入省したが、その後日伊協会に勤務する。「現代文学」「構想」同人。昭和21年1月、荒正人、本多秋五、平野謙らとともに「近代文学」を創刊する。花田清輝らと「総合文化」「現代芸術」創刊。文芸評論集『個性復興』『昭和文学論』や『昭和文学史』(共著)『現代日本文学辞典』(共編)がある。ほかに翻訳や映画評論の分野でも活躍。平成2年、『私のチェーホフ』で野間文芸賞受賞。


長光太(本名 伊藤信夫) 
詩人 明治40(1907)年〜平成11(1999)年

 大阪生まれ。広島で育つ。早大仏文科中退。
 原民喜とは広島高等師範学校附属中学校で出会い、熊平武二とともに同人誌「少年詩人」の同人となる。また、民喜や山本健吉らと同人誌「春鶯囀」発行。その後、左翼労働運動、プロレタリア詩運動に参加する。雑誌社に勤務し、詩劇「昨日今日明日」や、喜劇「陽気な土曜日」などの作品を発表する一方で、戯曲批評なども執筆。また記録映画の脚本、制作に従事した。戦後の一時期を北海道で過ごし、「近代文学」「三田文学」その他に詩を発表。歴程同人。  
 民喜とは生涯にわたる交友が続き、中央図書館には民喜に宛てた150通を超える書簡が残されている。


山本健吉(本名 石橋貞吉) 
文芸評論家 明治40(1907)年〜昭和63(1988)年

 長崎生まれ。長崎県立長崎中学を経て、慶大文科予科に入学し、折口信夫に師事する。またこの頃、原民喜、田中千禾夫、滝口修造らを知る。原民喜、熊平武二、長光太らと同人誌「春鶯囀」、回覧雑誌「四五人会雑誌」を出す。大学卒業後は改造社に入社。以後出版社、新聞社に勤めながら評論活動を行ない、戦後は著述に専念する。古典から現代まで幅広く文学を論じ、また俳句への造詣も深く、『古典と現代文学』、『芭蕉』、『柿本人麻呂』などを著した。日本文芸家協会会長を務める。昭和58年、文化勲章受章。  
 昭和9年、向かいに住んでいた民喜夫妻らと同時に特高警察により逮捕され、この事件の際、民喜と絶交となるが、戦後遠藤周作の計らいにより和解した。


熊平武二 
詩人 明治39(1906)年〜昭和35(1960)年
 

原民喜(左)と熊平武二(右)
広島市生まれ。広島高等師範学校附属小・中学校から慶應義塾大学へ進む。16、7歳より詩作を始め、民喜ともまた中学時代に知り合う。大正15年に民喜や山本健吉、兄の熊平清一らと創刊した同人誌「春鶯囀」では編輯者をつとめた。昭和15年出版の詩集『古調月明集』には北原白秋が序詩を寄せている。その後は郷里広島に戻り、家業に参与した。


遠藤周作 
小説家 大正12(1923)年〜平成8(1996)年


原民喜(下)と遠藤周作(上)
 東京生まれ。幼少期を満州で過ごし、帰国後に住んだ神戸でカトリックの洗礼を受ける。慶應義塾大学仏文科ではフランスのカトリック文学に傾倒し、在学中より多くの評論を雑誌に発表して評価を得た。卒業後、戦後初のフランス留学生として渡仏するが結核を患い帰国、執筆活動に入る。小説「白い人」で芥川賞受賞、「海と毒薬」作家としての地位を確立した。キリスト教を生涯のテーマとし、「沈黙」「深い河」などの小説のほか、狐狸庵を名乗りユーモアあるエッセイを残した。

原民喜(左)と遠藤周作(右)
 民喜とは昭和23年6月に能楽書林で行われた三田文学の合評会で出会い、以後留学先で民喜からの遺書を受け取るまで、深い信頼と尊敬を寄せる先輩として交流が続いた。民喜について回想した数点の作品を残す。



大久保房男 
編集者 大正10(1921)年〜
 
 三重県生まれ。慶應大学国文科卒。昭和21年講談社に入社、「群像」編集者として「三田文学」の版元であった能楽書林を訪れるうちに原民喜を知り、以後「魔のひととき」など民喜の作品を「群像」誌上で発表、遠藤周作とともに親交を深めた。昭和30年から41年にわたり同誌編集長を務め、純文学誌としての充実を計り、「文学の鬼」とも呼ばれた。著書には『文士と文壇』『終戦後文壇見聞録』など編集者の視点で「文士」の生き方を記したほか、小説『海のまつりごと』などがある。


丸岡明 
小説家 明治40(1907)年〜昭和43(1968)年

 東京都生まれ。慶応義塾大学在学中の昭和5年「三田文学」掲載の小説「マダム・マルタンの涙」が注目され、横光利一らの評価を得る。堀辰雄に師事。モダンな文体と新しい心理描写で「生きものの記録」など発表。作家としての執筆活動とともに実家の能楽書林を継ぎ、一時は自宅を発行元として「三田文学」編集にも携わった。昭和26年原民喜を題材にした「贋キリスト」を発表する。
 能楽書林は、昭和23年からの2年間民喜が下宿しており、『夏の花』を発行するなど、民喜の執筆活動を支え、友人たちとの交流の場となった。


梶山季之 
小説家 昭和5(1930)年〜昭和50(1975)年


民喜の碑を見つめる梶山季之
韓国生まれ。昭和28年、第15次「新思潮」に参加。週刊誌トップ屋記者としての経験を生かした『黒の試走車』(昭和35)がベストセラーになり、流行作家となった。46年には月刊誌「噂」を創刊。作品に『赤いダイヤ』『李朝残影』『せどり男爵数奇譚』など。  
 広島高等師範学校在学中から同人雑誌「天邪鬼」(1950年創刊)を主宰する一方、広島ペンクラブ事務局として原民喜詩碑(碑設計、谷口吉郎。詩碑の記、佐藤春夫。現在は、原爆ドームそばに再建されている)の建立などに奔走した。



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