タイトル
原民喜の文学について
岩崎 文人(広島大学名誉教授)

  ひとりの作家の著名な代表作が、時として、その作家の他のすぐれた著作を後景に退かせてしまう、ということがある。  
 原民喜を例にひくと、さしずめ、「夏の花」(昭和22・6)が著名な代表作ということになる。というのも、「夏の花」が原爆文学として突出した評価を得ているからに他ならない。こうした有りように異を唱えるつもりは、もちろんない。原爆の悲惨さ、非人間的行為に加えて、被爆した作家たちそれぞれの凄絶な戦後を知っているからである。  
 広島市幟町で被爆した原民喜は、〈このことを書きのこさねばならない〉という、強い使命感にかられ、「夏の花」をはじめとして、被爆体験を軸とした「廃墟から」(昭和22・11)「壊滅の序曲」(昭和24・1)などを発表するが、朝鮮戦争勃発の翌年、1951(昭和26)年3月、机上に十七通の遺書を残し、中央線吉祥寺・西荻窪間の線路上に身を横たえ、自らの命を絶った。翠町で被爆した峠三吉は、自らの命と引き替えのように、『原爆詩集』(昭和26・9)を世に残し、1953(昭和28)年3月、肺葉摘出手術中、西条療養所で死去した。『屍の街』(昭和23・11)で知られる大田洋子は、白島九軒町で被爆し、戦後、不安神経症などで苦しむが、1963(昭和38)年12月、取材のために訪れた東北猪苗代町の旅館で急逝した。2005(平成17)年3月、九十二歳で亡くなった栗原貞子の戦後も、たたかいの日々であり、九十歳を超えてなお、平和集会で自作詩を朗読した姿は、忘れることができない。  
 とは言え、原爆文学以外の作品をも視野に入れた原民喜の全体像は、やはり明らかにしなければならないだろう。それは、寡黙で誠実なひとりの作家に対する後代の読者の責任でもある。

  多くの作家が青春を主要な文学的題材にしたが、原民喜は青春という魅力的な対象に対してきわめて禁欲的であった。  
 慶應義塾大学時代の左翼運動への傾斜、横浜本牧の女性との同棲とその破局、カルモチン自殺未遂、と話柄にはこと欠かない。が、原民喜は、こうした青春を文学の上ではほぼ封印している。このことは、原民喜の文学を語る上で重要なことである。原民喜と似通った軌跡をたどった太宰治が、虚構という形ではあるがみずからの体験を、『斜陽』(昭和22・12)『人間失格』(昭和23・7)といった小説で発表していることを想起すれば、ふたりの文学的資質、さらには文学的距離もはっきりしてくる。  
 原民喜の文学は、短詩型文学はひとまずおくとして、少年時を回想したもの、妻貞恵を追慕したもの、被爆体験を軸にしたもの、の三つに大別できる。が、これらは、時代的に区分できるといったものではなく、原民喜の関心の中に同時的にあったものである。  
 戦後の原民喜の主要な文学的動向を年譜的に整理してみれば、次のようになる。

1946(昭和21)年 「忘れがたみ」(「三田文学」3月号)〔妻貞恵を追慕したもの〕
「冬日記」(「文明」9月号)〔妻貞恵を追慕したもの〕
1947(昭和22)年 「吾亦紅」(「高原」3月号)〔妻貞恵を追慕したもの〕   
「夏の花」(「三田文学」6月号)〔被爆体験を軸にしたもの〕
「雲の裂け目」(「高原」12月号)〔少年時を回想したもの〕
1948(昭和23)年 「昔の店」(「若草」6月号)〔少年時を回想したもの〕   
「画集」(「高原」7月号)〔妻貞恵を追慕したもの〕
1949(昭和24)年 「魔のひととき」(「群像」1月号)〔妻貞恵を追慕したもの〕   
「苦しく美しき夏」(「近代文学」5・6月合併号)〔妻貞恵を追慕したもの〕
「鎮魂歌」(「群像」8月号)〔被爆体験を軸にしたもの〕
1950(昭和25)年 「美しき死の岸に」(「群像」4月号)〔妻貞恵を追慕したもの〕
1951(昭和26)年 「遙かな旅」(「女性改造」2月号)〔妻貞恵を追慕したもの〕

  こうして原民喜の戦後の足跡のおおよそをたどれば、「夏の花」冒頭の独立した段落―
―八月のはじめ、〈夏の花〉を妻貞恵の墓に手向ける場面――が持つ意味もおのずと明らかになる。それは、貞恵の死とヒロシマの死者たちとの対比によってもたらされる、原爆の悲惨さを浮き彫りにするための周到な配置であった、ということである。
  貞恵は、1944(昭和19)年9月28日、肺結核に糖尿病を併発し、千葉市登戸町で原民喜と貞恵の母にみとられ、亡くなる。三十三歳という生涯は短かく、それゆえ悲しくもあるが、与えられた生を生き抜いた一生でもあった。その臨終に誰も立ち会うことのない、〈自分の死を全うして〉いないヒロシマの死者たちを描いたのが、竹西寛子の「儀式」(昭和38・12)であるが、貞恵の死は、〈さまざまな儀式〉をともなった、〈確かな死〉であったことはまちがいがない。
 これに対して、「夏の花」で描出される死者たちは、当然あり得たその後の人生を原爆によって剥奪された人々なのである。「死のなかの風景」(昭和26・5)で原民喜は、貞恵の〈顔に誌されている死の表情〉は、幾時間かののち、〈苦悶のはての静けさに戻って〉いた、と記すが、ヒロシマの死者たちの表情は、安らぎからほど遠い、〈人間的なものは抹殺され〉た〈何か模型的な機械的なものに置換えられ〉た表情として描出される。
 冒頭部の墓参の場面と呼応するように、「夏の花」は、妻〈の死骸〉を、妻の〈勤め先〉である〈女学校〉、宇品近くの自宅、西練兵場、〈いたるところの収容所〉と捜しまわるNの姿が描かれて終わる。〈どこにも妻の死骸はなかった〉、という一文は、生まれ、生き、死んでいくという自然の摂理とは異なる生――生まれ、生き、殺される――を強いられたヒロシマの死者たちを象徴してもいるのである。
 貞恵を追慕する一連の短編群は、原民喜の死後、『美しき死の岸に』としてまとめられることになる。一方、「夏の花」は、「夏の花」「廃墟から」「壊滅の序曲」の三作をまとめ、『夏の花』(昭和24・2)として刊行された。また、少年時を回想した作品は多数あるが、その中の九編をまとめたのが『幼年画』である。少年時を回想した作品の核にあるものが、小学校一年時の弟六郎の死、五年時の父信吉の死、高等科に入学した年の次姉ツルの死にあるとすれば――じっさい、ツルの死を描いた「焔」(昭和10・3)では、〈つぎつぎに死ぬる、死んでどうなるのか〉という一文がある――、原民喜はこうした作品を通して、いわば不条理と存在への懐疑、不安を描いたのである。
 原民喜は、肉親の死、妻の死、被爆者の死と、死を凝視し続けた作家といってよいし、鎮魂の歌をうたいつづけた作家といってもよい。


 が、ここで注意しなければならないのは、妻貞恵の死、ヒロシマの死者それぞれに対する原民喜の有りようである。  
 妻貞恵の死を描いた『美しき死の岸に』は、〈妻と死別れてから彼は、妻あてに手記を書きつづけていた。彼にとって妻は最後まで一番気のおけない話相手だったので、死別れてからも、話しつづける気持は絶えず続いた〉〈もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残ろう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために〉(「遙かな旅」)という文章に象徴的なように、基本的には、〈私〉あるいは〈僕〉の〈お前〉(貞恵)に対する呼びかけによって成立している。それはきわめて個人的な、いわば〈私〉の鎮魂歌である。しかし、ヒロシマの死者たちに対する鎮魂の歌は、〈自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かして僕を感動させるものがあるなら、それはみなお前たちの嘆きのせいだ〉(「鎮魂歌」昭和24・8)と記されているように、社会化された〈僕〉の、〈お前たち〉(ヒロシマの死者たち)に捧げられた、いわば〈公〉の鎮魂歌なのである。  
 戦後の原民喜は、妻貞恵を鎮魂する個人的な〈嘆き〉とヒロシマの死者たちを鎮魂する社会的〈嘆き〉というふたつの悲しみを生き、そして、孤独な生をみずから閉じたのである。
(原民喜の文章の引用は、『原民喜戦後全小説上・下』〈講談社文芸文庫〉による)

↑ページの先頭へ