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平成30年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」(前期)第5回「広島藩内の港町と商業組織」

浅野氏入城400年記念事業 平成30年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」前期 第5回「広島藩内の港町と商業組織」を平成30年10月20日(土)に開催しました。
その概要をご紹介します。

第5回「広島藩内の港町と商業組織」
講師:公益財団法人三井文庫 主任研究員 下向井 紀彦さん

歴史講座前期第5回_1歴史講座前期第5回_2

概要

近世日本の海運は河村 瑞賢(かわむら ずいけん)の東廻り航路(奥羽地方~太平洋沿岸~江戸)・西廻り航路(日本海沿岸~下関~瀬戸内海~大坂)の整備により飛躍的に発展することになりました。瀬戸内海は西日本・日本海諸国と大坂を結ぶ大動脈となり、風待ち・潮待ち、補給・休憩、商業活動などのため、航路の沿線上に港町が発達しました。

今回は、広島藩の港町のうち、主に尾道の港町商業についてお話していただきました。

  • 広島藩の港町
     広島藩では、西廻り航路の開発による全国市場の形成や、商品流通の拡大にともない、様々な性格の港町が整備されていった。公用交通の寄港地として使用された港、年貢米を集荷し大坂に向けて積み出す港、廻船が寄港し商品を売買する港町などである。たとえば、尾道や宮島は諸国廻船の寄港地や交易地、竹原は主要産品である塩の積出港、御手洗は西廻り航路・沖乗り航路の発達により出現・発展した港町、三之瀬は朝鮮通信使の迎接など公用交通の寄港地、として知られている。
     このように、広島藩内には特色ある港町が多く存在していた。そのなかで尾道のような商業港に注目すると、領外商品の中継港、国産品の積出港、中継港機能を中心としながら国産品の積出港として成長する港などがあった。いずれも藩領内外を結びつける流通上重要な港町として、活発な商取引を展開していた。
  • 尾道の商業活動
     さて、尾道を事例に港町の商業活動についてみてみたい。尾道の商業活動は、問屋(といや。商品売買の仲介などに携わり、港町の経済活動の中核を担う)、仲買(なかがい。問屋を介して廻船から商品を購入し領内外に売却する)、仲仕(なかし。港湾労働者)、廻船にサービスを提供する商人、特産品を製造し廻船に販売する職人(鍛冶職人や石工など)など、様々な人々によって支えられていた。
     18世紀以降、尾道には多数の船問屋が存在し、廻船の積荷の中継商業を担っていた。18世紀の半ばには商業組織(問屋株仲間)を結成し、問屋掟(廻船との取引関係や商品取引のルール)を制定するなど、問屋のしくみを整えていった。そのなかに取引資金確保の取り組みもあった。
     彼らは廻船との取引資金を確保する必要があり、質屋や有力商人から融資を受けていた。また、藩や町役人主導で設置された金融機関から融資を受ける場合もあった。尾道では以下のような複数の金融機関が設けられ、取引資金確保の便宜をはかっていた。
    ① 問屋座会所
      安永9年(1780年)に尾道の問屋・仲買の取引資金不足解消を目的に設立された。問屋から手数料収入の一部を拠出させて元手として資金を貸し付け、利息収入で貸付資金を増強していった。借りることができるのは廻船と取引のある尾道の問屋と仲買のみだが、無担保、短期間の正金銀貸し付けが可能で、質物は不要だった。
    ② 御札場質物貸
      天明6年(1786年)に始まる取り組みである。御札場は藩札発行などを行う藩の機関で、尾道にも所在していた。御札場質物貸は、尾道町役人が御札場から資金を預かり、廻船から受け入れた特定商品を質物にして資金を貸し付けるもので、利息収入で貸付資金を増強していった。貸付対象商品は、穀類・綿・干鰯類など限定的で、対象商人もこれらを扱う尾道の問屋・仲買のみだった。
    ③ 諸品会所
      天保8年(1837)に尾道駐在の藩役人が提言し、尾道町役人らがプランを練って設立した尾道町の金融機関である。藩と尾道町役人の出資で設立し、運営は尾道町役人が行った。2年の試行期間を経て同10年から本格的に営業を開始した。質物を受け入れて資金貸与し、また質物の委託販売を実施するなどして、貸付利息や委託販売手数料を得ていた。収入の一部は藩に納めつつ、貸付資金の増強を行ったものと思われる。質物の品目に制限がなく、領内産品を領外に出荷しようとする領内商人や、尾道以外の商人や廻船にも貸付対象を拡大していることが大きな特徴である。
      これら廻船や領内外の様々な商人のニーズに対応した金融機関の展開は、領外商品の中継商業のみならず、領内産品の領外販売による外貨獲得策であるとともに港町への廻船誘致策としても期待されていたと思われる。
  • 客船誘致の取組
     廻船や客の誘致という点でも、尾道では様々な取り組みをしていた。相撲・芸能の興行や富くじの開催、茶屋の設置などとともに、廻船が寄港しやすいように港の浚渫を定期的に実施し、弘化年間には播州高砂(現 兵庫県)の技術家・工楽松右衛門に浚渫事業を依頼していた。さらに、浜に物置を建てたり、塵芥がたまって船荷の揚げ降ろしの妨げになった際には塵芥処理場を設置したりしている。港湾労働者に対し、子どもの筒穂撫(つつほなで。船荷の上げ下ろしの際、こぼれた荷物を拾うなどの行為)の禁止など、荷役場での禁制を遵守するよう通達を出し、他所の廻船や客の外聞にかかわることとして注意することもあった。また、公用交通通行時に藩の出先機関や町家などへの落書禁止を指示する場合もあった。港町が他所の人びとから見られる場所であることを強く意識している様子を感じることができる。落書きのない建物やごみのない港湾部といった清潔・安全・外見上の配慮も、廻船や来訪者の信頼獲得や取引拡大の要素として意識されていたであろうことがうかがわれる。

以上のように、本講座では尾道の商業活動や取引資金の確保を事例に近世の港町の一側面を概観した。

近年、北前船や内海船、中小廻船など、船に注目した研究が大いに進展している。一方で瀬戸内港町に関する新しい研究はあまり進んでいないのが現状である。港からみた近世の流通、そしてその中での港町の再評価はこれからの課題といえるだろう、と締めくくられた。

【参考文献】

【関連本】