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平成30年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」(前期)第1回「浅野長晟・光晟の政治と藩体制の確立」

浅野氏入城400年記念事業 平成30年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」 第1回「浅野長晟・光晟の政治と藩体制の確立」を平成30年6月9日(土)、合人社ウェンディひと・まちプラザで開催しました。
第1回ということで、浅野氏広島城入城400年記念事業推進会議委員 茶道上田宗箇流家元 上田宗冏(そうけい)氏による開会挨拶の後、講座を開始しました。会場を埋め尽くした約150名の方は、講師の話にうなずきながら熱心に聞き入っていらっしゃいました。

第1回の概要を簡単にご紹介します。

第1回「浅野長晟(ながあきら)・光晟(みつあきら)の政治と藩体制の確立」
講師:広島県立文書館総括研究員 西村 晃さん

歴史講座前期第1回_1歴史講座前期第1回_2

歴史講座前期第3回_1

概要

広島藩初代藩主 浅野長晟が広島城に入城した元和5年(1619年)8月8日から、2代目藩主 光晟が逝去した寛文12年(1672年)までの合計54年間を、広島藩体制の確立期として、また、日本における幕藩体制形成に至る重要な50年間として位置づけ、その時代の広島藩政について話をされました。
※幕藩体制の形成に至る重要な50年間
 幕府:大名や国民を統治する国家機関として法律を制定し、裁判・警察機能を含む行政組織を構築した。
 大名:軍事中心の家臣団を行政官僚として編成し、領民支配のための制度を構築した。

初代藩主 浅野長晟による初期藩政(元和5年(1619年)~寛永9年(1632年))
  • 入国直後の措置

    家老・浅野知近(ともちか)を成敗 → 広島藩主としての権威を確立
    4家老(浅野知近:三吉3万石、浅野忠吉:三原2万8千石、上田重安:小方1万石、亀田高綱:東城7千石)の知行割に不満を示した浅野知近を成敗し、広島藩主としての権威を確立した。
    また、寛永元年(1624年)、家老 亀田高綱の退去に伴い、寛永18年(1641年)浅野高英を家老に抜擢した。以後、三原浅野家(3万石)・上田家(1万7千石)・東城浅野家(1万石)の3家老を世襲とする。

    年貢の確保と農政の開始
    ●元和5年(1619年) 8月10日 「郷村掟書」布達
    (『広島県史 近世資料編 3』(広島県/編、広島県、1973年)p9「五 浅野長晟郷村掟書」)
    田畑作物の刈上げを禁止し、福島時代から村に残る有米や、年貢・小物成のうち郷蔵保管分の明細を提出させた。また、百姓の出国を禁止し、竹木伐採を禁止した。
    ●同年 8月22日 
    約1万石を単位に代官割を実施。各郡に2~3人の代官(1千石以上20人を含む140人)
    を配置し、升さし奉行などを任命する。
    →軍事力を使用してでも領民の動揺を抑制し、年貢を確保する意図がうかがえる。
    ●元和6年(1620年)1月23日 「郡中法度」布達
    (『広島県史 近世資料編 3』(広島県/編、広島県、1973年)p13「一二 浅野長晟郡中法度」)
    →領内を徹底的に把握し、百姓を保護する一方で、土地にしばりつけて耕作に専念させる。また、一度出奔した百姓を還住させ、年貢を安定的に徴収する。

  • その他の政策

    ●年貢以外の雑税の創設
    ●地方(在方)・町方・浦方の区分支配
    ●御手伝い普請
    →幕府は外様大名に対して、江戸城や江戸城下町の建設など過酷な負担を強いた。そのため、江戸初期の外様大名の命題は、幕府からの命令に応じられるだけの財力や支配機構を構築することであった。

二代藩主 浅野光晟による藩政(寛永9年(1632)~寛文12年(1672))
  • 災害の克服
    元和6年(1620年)5月 大雨と洪水により広島城下で水害、広島城などに被害
    寛永8年(1631年)8月 広島城下の橋が水害ですべて落橋
    寛永15年(1638年)~承応3年(1654) 毎年のように旱魃(かんばつ)・冷害・洪水が起きる。また、この時期寛永の大飢饉も起きる
    明暦3年(1657年)2月 広島城下で大火災
    →郡中の実情調査と農村保護政策を実施する。
  • 三次藩の創出
    光晟には3歳年上の庶兄 長治がおり、寛永9年(1632年)10月、幕府は光晟に広島藩継承を許可すると同時に、長治に5万石分知を命令した。分家(支藩)は御家断絶を防ぐためであり、長治は若い藩主光晟の補佐役として期待されていた。
    寛永9年(1632年)11月 長治を藩主として三吉藩(三次藩)が成立した。本家とは別に領知朱印状を幕府から拝領した分家は、本家に扶養されず、幕府から独立した家と認められる。(別朱印分家といい、本家としては石高減少のデメリットがある)
    →三次藩の分知により、浅野本家の石高は減少 (37万6500石)するが、42万6500石としての家格を守るため、地詰を実施する。
  • 寛永地詰と正保地詰の実施
    寛永15年(1638年) 蔵入地(大名の直轄地)で地詰を実施
    正保3 年(1646年) 給知(大名領主から知行を与えられた、家臣の土地)で地詰を実施
    地詰(幕府に届けない非公式の一藩限りの検地)を実施した結果、佐東郡(後の沼田郡)などで村高が増加した。地詰による改出高34,308石と、大規模な新開築調の成果17,280石を合わせて計51,588石を幕府へ報告し、426,563石の大名としての格式を保持する。
  • 寛永10年(1633年)に、幕府巡検使の巡察が行われた。その接待のため、領内の道路、橋、茶屋(公的な賓客の接待施設)等を整備し、西国街道に一里塚を設置したことで、交通制度が整備された。
  • 幕府は東照宮勧請を特に奨励していなかったが、諸大名は幕府への忠誠を表わすため東照宮を造営した。
    正保3 年(1646年) 光晟は将軍家光から東照宮勧請について内々に許可を得て、慶安元年(1648年)広島城の鬼門(北東)尾長山に東照宮を勧請し神体遷宮式を行った。
参考文献

※広島市立図書館に所蔵がないものを含みます。

  • 芸藩輯要 附・藩士家系名鑑(復刻版) 』(林 保登/編、芸備風土研究会、1970年)
  • 広島県史 通史編3 近世1』(広島県/〔編〕、広島県、1981年)
  • 『江戸幕藩大名家事典』(全3巻)(小川 恭一/編著、原書房、1992年)
  • 『諸国東照宮の史的研究』(中野 光浩/著、名著刊行会、2008年)
  • 『江戸大名の本家と分家』(野口 朋隆/著、吉川弘文館、2011年)
  • 広島藩』(土井 作治/著、吉川弘文館、2015年)
  • 広島藩の地域形成』(土井 作治/著、溪水社、2016年)
関連本