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平成29年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」(後期)第3回「広島藩の流行病(はやりやまい)」

浅野氏入城400年記念事業 平成29年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」(後期)第3回「広島藩の流行病」が平成30年1月20日に開催されました。
その概要を簡単にご紹介したいと思います。

後期第3回「広島藩の流行病(はやりやまい)」
講師:呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)学芸員 杉山 聖子さん

歴史講座後期第3回_1歴史講座後期第3回_2

概要

杉山氏は、江戸時代中期から後期の広島藩の農村(賀茂郡黒瀬組)における死亡者数の推移を、寺院過去帳から調査されています。今回の講座では、その検証結果をもとに、次の二つの観点で話をされました。

  • 江戸時代の広島にどのような伝染病(流行病)がどのくらいの頻度で発生していたのか、死亡クライシスが周期的に発生することに注目して考える。
  • 伝染病(流行病)が社会にどのような影響を与えたのか

※寺院過去帳は連続した死亡者情報、特に乳児死亡数が把握できることから調査の基礎資料とした。
※「死亡クライシス」とは、歴史人口学において、平常時の死亡者数からの著しい上昇が観察される状況を表わす言葉

広島藩内の農村においても、周期的に死亡者数の著しい増加(死亡クライシス)が繰り返されている。10歳未満の死亡者数増加は死亡者総数の動向に影響を与えており、また天保の大飢饉により15歳以上60歳未満層の死亡者が著しく増加している。(図1:賀茂郡黒瀬組における死亡者数の推移
死亡者指数が最も高い年は天保8年(1837)である。なお、日記などの文献資料によれば天保8年(1837)・天明5年(1785)は飢饉、享和3年(1803)・文政6年(1823)は麻疹(はしか)、文久2年(1862)は爆吐瀉(コレラ)・麻疹(はしか)、文政5年(1822)は虎狼痢(コレラ)が死亡の原因としてあげられている。(表1:死亡者数と死亡者指数
また、死亡者指数1.2未満を平常年として、死亡クライシス年と比較した。平常年では死亡者全体の約6割が10歳未満の子供たちで占められていることと、男性の方が平均死亡年齢が高い(長生きである)ことがわかった。この原因として、この地域が米麦2毛作を行っていたことから、秋の重労働に加え、収穫の端境期(はざかいき)における食料不足などが、病気を発症しやすい社会状況や生活様式を作り出していたと考えられる。

それぞれの死亡クライシス年の実態
①麻疹(はしか)の流行について
代表的な伝染病の1つで、子供に加えて大人も死亡する場合が多い。享和3年は、子どもの死亡者が多く、文政6年は子供に加えて15歳以上の女性も多く感染、死亡した。流行間隔(13年~27年)が長く、免疫を持たない世代が一様に感染する状況だったと考えられる。
②コレラの流行について
文政5年(1822)は、日本における最初のコレラ流行である。文久2年(1862)の流行時は、海外から九州に伝わり、西日本を経て全国的な流行となった。死亡者数は成人男性が最も多く、乳幼児が少ない傾向にある。また、コレラ流行月に年間死亡者数の大部分が集中していることから致死率が高い。コレラは水と密接な関係にあり、広島に川が多いことも流行の一因と考えられる。川が多いことと、成人男性は外に出て水に近いところで働くという状況から、成人男性の死亡者が多くなったと考えられる。
③天保の大飢饉について
近世後期最大の死亡クライシス。寺院過去帳には餓死者に関する記述は見られず、死亡者が特定月に集中していることから餓死ではなく病死者が多いと考えられる。飢饉による凶作で食料摂取が減り、栄養状態が悪化したことで抵抗力が弱くなり、何らかの伝染病が流行したのではないか。

このように、広島藩農村の死亡者数の推移をみると、江戸時代中期から後期の農村社会では、平常年水準から50%以上の死亡者増加がみられる死亡クライシス年が、周期的に表れていたことが確認できた。また、死亡クライシス年には、何らかの伝染病が流行していたと考えられる。死亡実態が複雑な地域性を有し、それが死亡クライシスの発生を規定していた、とまとめられた。

※図ー1、表ー1はクリックすると拡大表示されます。

歴史講座第3回_図

歴史講座第3回_表

参考文献・関連本