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平成29年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」(前期)第5回「江戸時代後期の広島藩における地誌編纂事業の実態」

浅野氏入城400年記念事業平成29年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩」第5回「江戸時代後期の広島藩における地誌編纂事業の実態」が10月21日(土)に開催されました。
その概要を簡単にご紹介します。

第5回「江戸時代後期の広島藩における地誌編纂事業の実態 -岡田清編『芸州厳島図会』の成立を軸として-」
講師:安田女子大学文学部日本文学科講師 吉良 史明 氏

歴史講座第5回_1歴史講座第5回_2

概要

江戸時代後期の広島藩における地誌編纂事業の実態について、『芸州厳島図会』を編纂した国学者近藤芳樹(田中芳樹)と儒学者頼杏坪との関わりを中心に、『芸藩通史』、近藤芳樹の『丹霞日記』などの資料を参考に話をされた。
岡田清編『芸州厳島図会』(全10巻)は、天保13年(1842年)に刊行された厳島(宮島)のまとまった地誌であり、名所図会5巻、宝物図会5巻からなっている。編者の岡田清は、江戸時代後期から明治時代初期にかけて活躍した国学者で、安芸広島藩士。近藤芳樹に国学・和歌を学び、明治2年(1869年)広島藩校の教授となるが、のち一時東京に出て神祇官につとめている。(『日本人名大辞典』講談社)
芳樹との関わりについて、『芸州厳島図会』所載の序によれば、厳島図会を作りたいと考えた岡田清が、芳樹に助力を頼み、芳樹が編纂に関わることになったとある。

当時の国学と儒学(朱子学)についての時代背景としては、幕府が寛政2年(1790年)に通達した「寛政異学の禁」の施行以後、各藩における朱子学者登用の機運が高まりをみせていた。一方、江戸中期以後、日本の古典や伝統の検証を行う国学が盛んになり、後期においては儒学者と国学者は藩校や塾の学問をどちらにするかなどでも対立している状況であった。

そのような中、『芸州厳島図会』では、奥付に編者として国学者近藤芳樹(田中芳樹)と儒学者頼杏坪の名が並んで記され、また、巻1の巻頭に所載されている「厳島全図」には、国学者本居宣長の和歌と儒学者管茶山の漢詩が左右に並んで掲載されるなど、儒学者および国学者の両者が編集に参加した内容となっている。さらに、頼杏坪・加藤棕廬他編『芸藩通史』の記述をもとに清が『厳島図会』を編んだこと、芳樹による伝説の琵琶玄上の考察が纏められた「玄上考」等の芳樹の小論をのちに附したこと、大鳥居の検証の部分においては『芸藩通志』所載の杏平「重造厳島神廟鳥居記」を用いず、宣長『玉勝間』の説を受けて論じている点など、芳樹の意向を受けた改訂が杏平没後になされたことを明らかにされた。

また、久保田啓一著「近藤芳樹の活動拠点としての広島」(『国文学攷』第218号、平成25年6月)に「杏坪が芳樹に対して巧妙に仕掛ける隠微な拒絶に、芳樹が立ち疎まざるを得ない状況にしばしば追い込まれたのも事実だった」とある通り、杏平と芳樹の間が必ずしも良い関係だったとは言えないことも確認された。結論として、表向きは杏平没後の頼家を立てつつも、一方において過去の杏平の仕打ちに対する恨みが、芳樹による『芸州厳島図会』の編纂には影を落としているとまとめられた。

参考資料