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平成29年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」(前期)第4回「おカネでみる広島藩」

浅野氏入城400年記念事業平成29年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」第4回「おカネでみる広島藩 ~藩札を中心に~」が9月16日(土)に開催されました。
その概要を簡単にご紹介します。

第4回「おカネでみる広島藩 ~藩札を中心に~」
講師:安田女子大学文学部 高木 久史准教授

歴史講座第4回_1歴史講座第4回_2

概要

江戸時代の貨幣システムとして、金、銀、銭の3種類の貨幣があったが、「東の金遣い・西の銀遣い」と言われるように関西以西(広島県域を含む)では銀が多く使用されていた。主な理由として、石見銀山、但馬生野銀山などの銀産地の存在や対中国・ヨーロッパなどとの貿易決済通貨として使用されていたことなどが考えられる。

紙幣は、1610年ごろ伊勢神宮門前町で日本最古の紙幣が民間で発行され、藩が発行する「藩札」は民間が創造した通貨のアイデアを地方政府が採用した形で生まれてきた。
では、全部「私札」でよいのになぜ「藩札」が誕生したのか。理由としては、次のことが挙げられる。

  • 銀の現物が不足し、藩は銀が欲しかった
  • 秤量の手間が省ける
  • 福山藩札が隣の尾道(広島藩)で流通するなど藩域を越えて流通した(民衆は便利ということで紙幣を流通させていく)

広島藩の藩札は、1704年に民間に委託して発行。札元は次のとおりである。
辻次郎右衛門(京都:広島藩京大坂借銀方・江戸為替御用)、三原屋清三郎(広島城下:質屋)、天満屋治兵衛(広島城下:広島藩肴御用)

また、当時の城下の金融の中心地である札場(銀貨・藩札の交換所)は、革屋町(現在の本通り)にあった。
藩札発行時の布告の内容は次のとおり。藩札専一通用を促し、財政補填のためできるだけ現銀を回収したいという広島藩の思惑がうかがえる。

  • 額面:5匁・1匁・5分・3分・2分
  • 商取引:藩札のみを使うこと(2分未満の取引では銭の使用可) ⇒現銀通用停止・現銭通用制限
  • 交換比価:現銀100匁→藩札101匁、藩札102匁→現銀100匁 ⇒交換手数料に往・復で差
  • 納税:藩札を使ってよい ⇒納税支払いを幕府通貨に限らない
  • 他藩からの来訪者も広島藩札を使うこと 

1707年幕府による突然の藩札通用停止命令(理由は不明)の後、広島藩も通用停止となった。その後、1730年に解禁となり、藩内は金銀貨通用を停止し、札使用が強制される。1759年、幕府による「藩札発行経験のない藩による新規発行禁止」命令により、藩札発行経験があるにもかかわらず広島藩の庶民が通用停止と誤解し、現銀兌換請求が起こりパニックとなった結果、事態収拾のため藩札の通用が停止される。しかし、1764年、民衆の誤解も解け藩札の発行を再開、1800年代初頭までは乱発もされず価格が安定していた。

ところが、1830年代に入ると、凶作や幕府による公役賦課などにより藩は財政難となり藩札が乱発され、価格が下落する。1847年「新札1匁=旧札40匁」として旧札の回収をはかったが、幕末まで価格の下落傾向は続くことになる。

藩札発行の目的は財政需要であったが、庶民の小額通貨の需要に結果的に対応した形となり、西日本の経済成長に通貨需要が大きく寄与したと言える。
最後の一言 “江戸時代、広島藩の庶民が使っていたのはほとんど紙幣だった。”

参考資料