若杉慧 -『エデンの海』から『野の仏』まで-

人と生涯・作品について

甲便友己/文

人と生涯

 「若杉慧とは?」という問いに一言で的確に答えることは難しい。

 「文学者である」と答えただけでは、若杉慧の全体像を言い切ったことにはならない。

 若杉慧の生涯を追っていくと、明治36年(1903年)、現在の安佐南区沼田町にあたる戸山村に生まれ、安芸門徒の風土の中で育ち、20歳で広島県広島師範学校を卒業後、広島と神戸で45歳まで教職にあった。すなわち、まずは教師として世に出ていたのであった。

 生徒の中には峠三吉と島尾敏雄がいた。島尾によれば、颯爽とした青年教師として、直接の受持ちではなかったが、印象に強かったという。

 神戸に移った若杉慧は、25歳で同僚の教師野村マサコと結婚し、一児をもうけるが翌年病によって妻を失う。彼が文学への志を固めたのは、この時の「この女の一生を小説として必ず書こう」という決心からであった。

 29歳で田中マス子と結婚。この頃から同人誌での活動が活発となり、「志賀直哉氏訪問記」や「ひそやかな飼育」などの作品を発表している。

 以後執筆活動を続け、39歳で「微塵世界」、翌年「淡墨」を発表した。この二作品は芥川賞候補となったが、「微塵世界」が候補となった昭和17年(1942年)は該当作なし、「淡墨」は川端康成らに高く評価されたが、受賞には至らなかった。

 戦後は、三度映画化され、演劇やラジオドラマにもなった『エデンの海』をはじめ、『禁断』『青春前期』などの作品を発表した。

 48歳で東京に移る。50代に入ると旅を好むようになり、石仏の撮影を始める。昭和31年の個展をきっかけに、写真集『野の仏』が刊行され、石仏ブームの発端となった。以降30年近く写真家、随筆・紀行作家として活躍した。

 70歳前後には、若い頃から惹かれていた長塚節の評論『長塚節素描』を数編にわたって発表し、これが完結した昭和50年に平林たい子文学賞を受賞した。

 後に若杉慧は昭和62年(1987年)に亡くなる。その84年の生涯の中で、彼は教師として25年間、小説家として27年間、写真家、随筆・紀行作家として約30年間という時間を過ごしている。このような彼の内面の多様性は、それぞれが独自に発達したものではなく、「若杉慧」という人物の中で相互に影響を及ぼし合いながら醸成されたものであると言えよう。

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作品について

 若杉作品の特徴、特質の最たるものは作品世界のもつ対照性である。

 好例は『エデンの海』と『禁断』であろう。これらはともに男性の教師と女生徒の恋愛を描いたものであるが、この二作品のあり方は非常に対照的である。

 『エデンの海』では教師南条と女生徒清水巴が理性によって退廃を避け、恋愛感情を外部に向けて解放していく過程が瑞々しく描かれている。

 これに対して『禁断』では、教師花巻は生徒である御船(みふね)を妊娠させてしまい、その事実を隠すために堕胎の手配を進める。しかし花巻があくまで事実を隠し通そうとしたために企ては失敗する。追い詰められた花巻の様子からみふねは自殺を決意し、花巻はその手助けをする。

 これらの作品はそれぞれ単独で成立しているものであるが、作品単位での比較を行う上でも興味深い素材である。この明暗のはっきりとした二作品を通して読んでいくと、同じものが全く対照的な結果をもたらすという、男女の関係性のあり方の本質的な問題が、その関係性における禁忌の位置付けとともに浮かび上がってくるのである。

 『エデンの海』はよく青春小説の名作として評されている。だが同じ作者によって『禁断』が書かれた事実を踏まえると、一概に作品の持つ明るさや瑞々しさを、青春小説に特有の、一元的なものとして規定することはできない。

 それは明暗をともに描いたところに本質的な問題が提示されるために、不可欠な「明」の要素ともなっているのである。

 作品世界がこのような対照性を備えていることは「大衆文芸誌の中にも、積極的に純文学的な作品を発表できるような場を試みようとした」という彼の言葉と無関係ではないようである。

 その他の作品にも随所に対照的な要素を見出すことができる。「微塵世界」は大正期の山村を舞台に、主人公である寺の従僧の息子信楽と、住職の息子一乗の中学受験を描いたもので、着実に実力をつけた信楽は合格し、焦りから身体を壊した一乗は落ちる。まずこの時点で二人の構図は対照的である。

 さらに明暗の観点から見れば「微塵世界」は全体的に明るいが、翌年に発表された「淡墨」は明治維新の神戸事件を基に、切腹する武士の姿を冷徹な描写で描ききった「暗」に属する作品である。

 またこの「淡墨」を森鴎外の歴史小説「堺事件」と比較すると、「淡墨」の描写の冷徹なあり方が際立ったものであることがわかってくる。

 若杉の作品世界にこのような対照性があらわれてくる背景としては、例えば明と暗の根本を一つのものとして見ようとするような、彼の仏教的な世界観に基づいた無常思想の存在が指摘されている。このような指摘は昭和55年に出身地である安佐南区沼田町阿戸の浄宗寺に建てられた仏塔『野仏之塔』の碑文として、若杉慧がこの石塔もいつかは砕けていくという意味で「仏も涅槃に入る時あり、石にも年輪がある」という言葉を選んだことによるものである。

参考文献

(人と生涯)
「若杉慧覚書 T・U・V」 松原勉
広島女学院大学国語国文学誌 第27号(T)平成9年
第30号(V)平成12年
広島女学院大学日本文学 第8号(U)平成10年
(作品について)
『文学・石仏・人生 若杉慧論』 吉本隆明、島尾敏雄、島亨、高田欣一、佐藤宗太郎 共著
昭和49年 記録社

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