沿革・コレクション

アメリカの日系人から故郷への贈り物「広島市児童図書館」(註1)

長谷川 寿美(執筆時:東海大学非常勤講師 現:慶應義塾大学非常勤講師)

原爆の廃墟の中からこども図書館が誕生するためには、大ぜいの人々の善意の働きがこめられています。米国南カリフォルニア州広島県人会そのほかから多くの寄付金をいただきました。これは、広島のこどもたちが夢と希望をもつように、こどもの図書館を立ててほしいという願いからなのです。

「広島市こども図書館」には、その前身である「広島市児童図書館」の小型模型とともに、「こども図書館のおいたち」としてその歴史が上のように紹介されている。世界初の原子爆弾によって未曾有の被害を受け焼け野原となった広島に、1953年、児童図書館が開館した。その資金の大半はアメリカ合衆国(以下、「アメリカ」と表記)の南カリフォルニアの広島県人会の尽力によって集められたものである。故郷を離れ、ハワイやアメリカ本土、南米の地に移住した人びとは、太平洋戦争中には敵国人の扱いを受け、戦後も自らの生活の立て直しに精一杯であったが、故郷の惨状に心を傷め、復興の助けになりたいと募金活動に励んだのである。本稿では、「広島市児童図書館」建設を可能にした「善意の働き」について紹介する。

 1885(明治18)年にハワイへ渡った官約移民以来、広島県は全国一位かそれに準ずる数の移民を輩出してきた。日本政府とハワイ王国の合意により始まった官約移民制度によって、広島県から多くの労働者が渡航した。3年間サトウキビ農場で働いて帰国するという出稼ぎ労働による官約移民制度が廃止された後も、民間の移民会社の斡旋によって渡航は続いた。やがてハワイがアメリカに併合されると、人びとはアメリカ西海岸へと向かうようになった。農業を中心とした労働は厳しかったものの、彼らは出稼ぎ先と日本との賃金差や為替レートによって高賃金を稼ぎ、それによって自身や親の家計を助け田地を増やすことができたのである(註2)。ロサンゼルスを中心に南カリフォルニア一帯に広島県人の移住が始まったのは1900年以降で、1910年代になると彼らは故郷から「写真花嫁」を迎え、家族で定住するようになった。「南カリフォルニアの恵まれた気候と沃土は、農業出身者の多い広島県人には大きな魅力で、多年にわたって蓄えた事業資金を以て他の都市から移住して発展、成功し、在米日本人間の中軸勢力となって、数においても、実力においても群を抜いていた」と広島県人会の75周年史には書かれている。日系人社会に広島出身者の割合が多かったことに加えて、とくに一世は出身地の方言で話し、県人の集まりや同郷の人間関係を大切にするなど故郷とのつながりが強く、1910年にはロサンゼルスで「広島県人会」が発足した(註3)

 しかしながら、こうした日系人や広島県人のコミュティの成長とは裏腹に、アメリカ社会の反日感情は強まる一方であった。それは日米関係悪化の影響もあったが、直接的には日系人の農業市場への参入が白人農家を脅かしていたことにも起因する。アメリカ政府は日本からの労働者の入国を禁止し、カリフォルニア州は外国人土地法(1913年)を制定して日系人農業の妨害を試みた。こうした反日政策は1941年末の日米開戦によりピークに達し、翌春、西海岸に住む11万人以上の日系人は強制立ち退きを余儀なくされ、アメリカの辺境地に建設された10カ所の収容施設に隔離された。その3分の2が日系二世でアメリカ国籍を有していた一方で、アメリカへの帰化を許可されず日本国籍のままであった一世のなかには、数年にわたる収容所生活によって望郷の思いを募らせた者も多かった。1945年1月1日、ようやく西海岸への帰還を許可されたものの、かつての「自宅」には家も、倉庫に預けた家財道具も、畑もなく、すべてはゼロからのスタートとなったばかりか、日系人の帰還に反対する地元からの差別やいやがらせと戦いながらの再出発となったのである。そうした生活のなかで人びとは、1945年8月、広島と長崎への原爆投下のニュースを聞いたのだ。

 「広島に原爆投下」のニュースは1945年8月7日にはアメリカの主要紙で報道されていた。さらに、日系二世のレスリー・ナカシマによる広島発の記事により、「かつて人口30万の広島市はわずか一回の原爆投下で廃墟と化し、連日、多数の犠牲者が出ている」と報道された(註4)。ナカシマが記事を打電した数日後、連合国最高司令官のダグラス・マッカーサーが日本に上陸した。日本が連合国の占領下におかれてからは、原爆報道を含むすべての報道が規制され、原爆被害の実態は国内外に広く知られることはなかった。実際、南カリフォルニア地区の日本語新聞『羅府新報』には、広島の被害状況に関する記事は見られず、原爆投下から1周年、2周年という広島に関する特集記事も、「原爆の威力」や「平和都市としての広島復興」に関するもので、人びとの生活に言及したものはほとんど見当たらない(註5)

 占領政策は言論統制だけでなく、日本への援助、国際郵便や物資の輸送、送金、民間人の渡航も制限していたため、占領期初期には日系人が広島の現状を知ることさえ困難な状況にあった(註6)。しかしながら、こうした規制の緩和とともに、日系人自身にとっても戦後の再出発が少しずつ落ち着いてきた1947年半ば頃から、日本を訪問する人が現れ始め、彼らが故郷から持ち帰る直接の情報は周囲に影響を与えた。ロサンゼルスの熊本俊典は1947年にバイヤーとして広島を訪問した際、持参した16ミリカメラで広島の復興状況を映像に収めた。楠瀬常猪広島県知事より「在米同郷人に対する救済」を依頼された熊本は、1948年2月に行われた広島県人会の役員会において、映像を紹介しながら故郷の救済を提案した。提案は満場一致で議決され、県人会会長の高田義一を中心に「原爆被害者救援会」が創設された。さっそく、その会場で出席者30名から3,000ドル(108万円)の義援金が集まった(註7)

 原爆被害者救援会は、1948年2月25日付の高田の名で「原爆被害者義捐金募集に就いて 縣人諸氏にお願ひ」とする文書を作成し、『羅府新報』にも掲載した。「私共の故郷広島市に原子爆弾が投下されて、全市全滅と言うニュースを聞いてから最早二ヶ年余りになります。其の直後終戦となり、新聞紙上や、或は郷里の人々などの通信に依り、被害の程度は略ぼ想像はして居たものの、聞けば聞くほど、其の惨害の甚大なのに驚く外はないのであります」と始まる高田の文書には、死者、行方不明者などのほか、消失土地面積や全焼家屋など、被害状況が数字で紹介されている。高田は続けて、「凡そ戦争と言ふものが如何に悲惨なものであるかと言ふ事と、戦争のために被害を被ったと言ふ点では、在米同胞も故国の人々と何ら異なる所はありませんが、私達は幸にも物資豊かな米国に在つて、同じく復興線上を辿りながらも、故国の現状に比ぶれば、天地雲泥の相違が其間に認められるのであります」とし、「郷里救済の一大運動に参加」することを県人会に呼びかけている(註8)。この文書は即刻、功を奏したと見られ、わずか1週間ほどで33名が献金し、義援金は4,800ドルに達した。個人別募金額は100ドル(15名)から5ドル(1名)に至るまでさまざまであった。『羅府新報』が「幹部の人々は寄付募集に廻って先方から礼を言はれたのは、今度が初めてであると感激している」と伝えているように、広島県出身者たちはこの時までに故郷の惨状を聞いて支援を願い、その方策を待ち望んでいたことが伺われる(註9)

 募金活動は順調に進行し、8月には総額1万2,000ドルに達し、そのうちの一部が救援物資として送り出された。宛先は似島学園や五日市戦災児童育成所などの施設に暮らす合計548名に向けて、一人当たり3ドル前後の実用的な品物が小包約80箱として郵送された(註10)。しかしながら、募金を物資に変えて困窮する場所に送るという方法は必ずしも計画通りには運ばなかった。物資が指定した場所に送られないという問題が発生していたのである。そこで、高田は濱井信三広島市長に意見を求め、濱井より児童文化図書館の建設への支援を提案された(註11)。広島県人会はこの提案に賛同し、1950年1月、400万円を図書館建設に寄付すると申し出た(註12)。これに先立つ1949年5月にはアメリカの青少年赤十字団のハワード・ベル博士を通じて、絵本など1,500冊が寄贈されている。これをもとにして、同年7月、広島市立浅野図書館内に児童図書館が創設されたが、今回の広島県人会による多額の寄付金によって、この児童図書館を独立した建物とすることが可能になる見通しとなった(註13)。1950年1月28日、南加広島県人会による広島救済募金400万円が東京銀行を経由して濱井広島市長あてに送金された。送金を通知する手紙のなかで高田は、図書館には「南加広島県人会」という文字を残して欲しいとの希望を伝えた(註14)。ロサンゼルスからの送金400万円は1950年5月初旬に広島市長の手元に届いた(註15)

 新しく建設される「広島市児童図書館」は、当時計画中であった「平和記念公園」の一部に組み込まれる予定になっていた。現在も「平和祈念式典」の会場となるこの公園の建設については、戦後まもない1945年9月と11月に提案されたが、1949年8月6日の「広島平和記念都市建設法」の公布によって、具体化されることになった。記念公園と施設全体のデザインについては設計コンペティションの公募が行なわれ、1949年の原爆記念日に、145点の応募作品の中から、当時、東京大学助教授であった丹下健三のグループが選ばれた(註16)。この平和記念公園の一角に児童の国際親善のための文化施設とリクリエーション施設からなる「児童センター」の建設が計画された。1950年6月に発表された計画案によれば、児童センターには合計6つの施設が含まれ、「児童図書館」もそのうちの1つであった(註17)。こうした経緯から、児童図書館の建設も丹下に依頼された。丹下研究室による設計では、図書館は「アメリカン・タイプ」の鉄筋コンクリート2階建て一部鉄骨という構造で、階上を上級生用、階下は幼児用読書室とし、二階中央広間は上部から採光し、窓外側に日射調節用堅ブラインドを備えるモダンな建物が考案された(註18)

 図書館建設は1952年5月23日に第1期工事が始まり、総工費は500万円余りであったが、財源として南加広島県人会の寄付400万円に加えて一般寄付金125万円が充てられた。一般寄付金の多くはハワイ、カリフォルニア、ユタ、ワシントンの各州に住む在米日本人の個人募金によるものであった(註19)。同年11月14日に第1期工事が完成し、翌年3月に第2期工事として管理室・便所等の工事が行われた。この工事の資金には、カリフォルニア州サクラメント市の広島県人会からの寄付74万円が充当された。防音図書室などの第3期工事が完成したのは1953年12月で、最終的な総工費は753万5,000円であった(註20)。完成した児童図書館は「人々の意表を突く形状」で、初代館長の田淵実夫の表現を借りれば、「じょうご型の筒柱を中心とする総体ガラス張りの円筒型館屋」で「巨大な、朝顔の花をすっぽりとコップにはめ込んだような館屋」であった(註21)

 完成した「広島市児童図書館」の碑には次のような文字が刻まれ、南加広島県人会の尽力が紹介された。

子供の家と名づけられ愛と平和を象徴した貝殻型のこの図書館は米国南加広島県人会から原爆被災慰問のため寄せられた浄財によって昭和27年末建設され内部施設の多くは広島青年会議所をはじめ各方面から贈られたものである(註22)

 図書館は第1期工事が完成した後の1952年12月4日に開館した。まだ書架や椅子なども揃っていなかったが、子どもたちは「とてもそれまでは待ちきれまいと非公式に閲覧」を開始した。連日、「幼い学究」が押し寄せ、子どもたちだけでなく親たちにも大いに利用された(註23)。図書に関しても、多くの支援を得て集められた。前述のアメリカからの1,500冊に加えて、布哇日米会から図書購入費として7万2,000円、ロサンゼルスから帰国した河野勝也による図書3箱分、南加広島県人会から新刊書456冊など、海外の日系人からの寄贈も多かった(註24)

 広島市児童図書館はその後30余年間、子どもたちの夢や知恵を育む場所として活躍した後、建物の老朽化により1980年に新しい図書館に建て替えられた。本稿冒頭で紹介したように、新しくなった「広島市こども図書館」でもその創設の経緯が紹介されている。広島から海外に移住した人びとから故郷への温かい思いは、今もなお子どもたちに伝えられている。

  • 本稿は以下の記事の一部に加筆修正したものである。長谷川寿美「広島の戦後復興支援─南加広島県人会の活動を中心に」『JICA横浜海外移住資料館研究紀要』第4号(2010年3月)53-68頁。
  • 広島県『広島県移住史−通史編』(第一法規出版、1993年) 8- 9、16、20-22頁。
  • 南加広島県人会『南加広島県人会75周年記念誌』(南加広島県人会、1985)。
  • Hiroshima Simply Gone, Says Leslie Nakashima, Los Angeles Times, August 31, 1945. 筆者訳。
  • 第二次世界大戦中の日系人強制収容により、『羅府新報』は1942年3月から休刊となったが、1946年1月より再刊。「けふ広島原爆一周年 全市に1分間黙祷 戦慄から解放され復興へ行進」『羅府新報』1946年8月5日。「あれから2年 きょう広島原爆の日 広島原爆の与えた教訓は“人類の破滅を警告”平和祭りにマ元帥のメッセージ」『羅府新報』1947年8月6日。
  • 占領軍による数々の規制については以下を参照。川口悠子「太平洋を越える広島救援活動―戦後初期の『平和都市』イメージへの影響について―」アメリカ史学会『アメリカ史研究』No.38( 2015)、24-26頁。
  • 「郷土 “広島”復興へ 拍車かける県人会」『羅府新報』1948年2月18日。「原爆都に初の復興資金 バイヤーの紹介で遥々米国から」『中国新聞』1948(昭和23)年3月27日。当時の為替レートは1ドル360円、以下同様。
  • 高田義一「原爆被害者義捐金募集に就いて 県人会諸氏にお願ひ」、1948年2月25日(広島市公文書館所蔵)。同文は『羅府新報』1948年2月27日にも掲載された。原文は旧漢字。
  • 「郷土復興援助へ集る『ヒロシマ』義捐金」『羅府新報』1948年3月6日。
  • 「来るぞ情けの贈り物 在米同胞から戦災児らに」『中国新聞』1948(昭和23)年8月4日。
  • 大下大蔵から濱井信三あて「伝達併に御願書」昭和25年2月6日(広島市公文書館所蔵)。
  • 高田義一から濱井信三あての書簡、昭和25年1月28日。(広島市公文書館所蔵)
  • 広島市教育委員会「児童図書館こどもの家建設経過報告」、年月日記載なし(広島市公文書館所蔵)。
  • 高田義一から濱井信三あての書簡、昭和25年1月28日。(広島市公文書館所蔵)
  • 広島市教育委員会、前掲。
  • 広島平和記念資料館ウエブサイト「広島の復興 広島平和記念都市建設法の成立」(http://www.pcf.city.hiroshima.jp/Peace/J/pHiroshima2_5.html、2015年11月29日閲覧)。
  • 広島市「広島児童センター計画説明書 案」1950年6月(広島市公文書館所蔵)。
  • 「広島に児童図書館 浄財で愈よ三月着工」『中国新聞』1952(昭和27)年1月24日。
  • 広島市寄附財産管理委員会「寄附者芳名録」、「管理状況報告」、昭和26年1月31日現在(広島市公文書館所蔵)。
  • 広島市教育委員会、前掲。
  • 田淵実夫「児童図書館建設前夜」広島市児童図書館報No.23 『児童図書館30年のあゆみ』1980年3月20日(広島市こども図書館所蔵)。
  • 広島県、前掲書、561頁。
  • 「『学究』の子ら押寄せる 広島児童図書館開く」『中国新聞』1952(昭和27)年12月8日。
  • 広島市教育委員会、前掲。
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