森本 和子(絵本学会会員、ぎんのすず研究会会員)
広島では、被爆後、子ども達は施設や用具もなく、厳しい状況に置かれていた。そのような時、米国から様々な援助があり、重要な働きをした人がハワード・ベル博士だった。
1998年に『占領下の翻訳絵本と教育−広島図書について−』として論文(私家版、広島市公文書館『紀要』22号・1999年発行に掲載)を書いた時、ベル博士について少し触れたので、後に『ハワード・ベル博士と広島』と題して書いたことがある(註1)。今回、資料を見直し、再び書く機会を得た。
ハワード・ベル博士(Dr. Howard Mitchel Bell) (1897-1960)は、1897年11月22日、米国コロラド州で4人兄弟の2番目として誕生した。デンバー大学で哲学と演劇を学び、コロンビア大学で社会福祉の修士、テンプル大学で博士の学位をとる(註2)。
被占領期、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の民間情報教育局(CIE)の職員として来日した。文官である。CIEの事務局は東京放送会館(旧NHK)にあり、当時の電話帳に1946年11月~1949年7月までのベル博士の記録がある。CIEでは教育課に属し、人員が増えるにつれ、1947年7月から教育課程・教科書班、1948年7月から教育専門家班・社会科学係になる。1948年10月に、Mr.からDr.(博士)になっている(註3)。戦後、1949年10月まで教科書はCIEと文部省が検閲をしていた。ベル博士も文部省とともに教科書の検閲をしていた時期がある。同時に、民主主義を推し進める活動もしていた。日本の新聞では、米国教育協議会に勤める傍ら、米国青少年赤十字東部地区長・CIE顧問と紹介されている(註4)。
ベル博士の名前が冠されている本が広島市こども図書館にある。「ベル・コレクション」である。1949年5月、米国からベル博士を通じて、絵本等1,500冊を受贈したものである。これをきっかけに同年7月に広島市立児童図書館条例が公布され、広島市立児童図書館が広島市立浅野図書館(当時小町)内に併設、開館されることになる。この後、1950年1月米国ロスアンゼルス市南加州広島県人会より児童図書館寄贈の申出を受ける(註5)。児童図書館は、1950年4月に本格的業務を開始する。様々な変遷を経て、現在、ベル・コレクションは、ベル博士を通じて受贈した図書の中の714冊を核とした978冊の洋書群として保管されている。
ベル博士からの贈り物として児童読物2,500冊の受領式が児童文化会館で行われた記録がある(註6)。県では「巡回文庫」が活動していたので、市でも同様の活動を行うため児童巡回文庫を育成課が計画し、ベル博士から贈られた本を学校に回して読んでもらう計画をたてた(註7)。
このほかにもベル博士は、本川小学校にアメリカの絵本78冊を贈っており、「ベル文庫」として記念した記録がある(註8)。
また、1946年3月に米国から教育使節団が来日したが、物資のない日本の子ども達に本をと提案された「本の贈り物」が1947年2月に到着し、この本が全国を一巡した。東京に戻ってきた時、保管場所について意見が分かれたが、子どもの本は最後まで子ども達に読んでもらう方がよいと提案したCIEの三人のうちの一人がベル博士である。その結果、全国の附属小学校に送られた(註9)。
広島、長崎への原爆投下に続き、1946年7月、米国は核実験をビキニ環礁で行う。11月5日実験成功の祝賀会があり、「きのこ雲」の形をした「原爆ケーキ」がカットされ、7日『ワシントンポスト』が記事と写真を掲載した。10日にワシントンのオール・ソウルズ教会のアーサー・パウエル・ディビーズ牧師が、これを読んで怒りを表した。ベル博士は、このディビーズ牧師の記事が載った雑誌『タイム』11月18日号を20日に読んでいる(註10)。
1947年1月11日~ 18日、ベル博士が初めて来広する。13日「ハワードベル博士松本瀧藏代議士本校視察。十一時→十二時より己斐校へ。」、18日「ハーワードベル博士松本瀧藏代議士再度来校児童朝会に於てお話を頂き学習状態巡視を受け、金弐阡五百円の寄贈を受く。」と本川小学校の日誌にある。本川小学校では、窓ガラスもなく、寒さに耐えながら学ぶ子ども達の姿があった(註11)。松本代議士は米国ハーバード大学院修了、英語が堪能で、この当時外務政務次官であった。ベル博士の通訳として同行している。
2月13日、オール・ソウルズ教会のディビーズ牧師はベル博士からの被爆地支援を呼びかけた手紙を教会で発表した。教会の人々を中心に、救援物資を集める運動が始まる。半トンもの物資が集まり、広島へ送る準備が進む。
3月、本川小学校の卒業式でベル博士からの金品の寄贈のお礼として慰問帖を送ったと報告されている(註12)。「ここが復興する迄私が寄付したことを人に告げてくれるな」と言って去ったベル博士からの贈り物であるお金と鉛筆20ダース、色鉛筆6ダースが公開され、喜ぶ子ども達の姿が5月に報じられる(註13)。この贈り物に対して絵や作文や人形がベル博士に送られた。ベル博士の返事には、米国の友人から鉛筆1箱、家内からクレヨンが送られてきて「広島市民の勇気と善良を思出すよすがとなるでしょう。」とあった(註14)。
10月、米国の少年達が集めた文房具や沢山の読物が広島の友達に送られてきたというベル博士の報せに、上京中の浜井市長がその中の1箱を持ち帰り、3日に全市の児童に伝え、関係の深い本川小学校を中心に配布している(註15)。
11月24日「米国赤十字団贈り物配布(全児童に)」(註16)、千田小学校にも赤十字団からの贈り物が届く(註17)。また、袋町小学校と似島戦災孤児学園(広島県戦災児教育所似島学園)にも配られている(註18)。お礼に、本川小学校では、皆がお金を出しあって、小網町の安井さわ子さんに、高さ二尺幅八寸のガラスケース入り「道成寺」の人形製作を依頼している(註19)。12月21日「酒井校長、森田教官、ハーワードベル先生に挨拶の為上京。」、23日「ハーワードベル先生に人形を贈り、謝意を表す。」(註20)。
1948年1月14日「米国ワシントン州オールソーシャル教会に対する感謝作品を作成」、23日「呉米軍政部教育課長へ児童作品を進呈、同一部を東京ハーワード・ベル博士に送付方依頼。(学校長出張)」(註21)。オール・ソウルズ教会とベル博士に贈られた作品集が同時に作成されていることが分かる。当時、五年生で、両方に作品が残っている、東川源治氏にお会いして、確認できた。
4月26日「ハーワード・M・ベル博士歓迎に関する協議会。」、5月2日「展覧会場準備、ベル博士を広島駅に迎ふ。」(註22)。ベル博士は、進駐軍専用列車で午後3時22分に到着した(註23)。二度目の来広である。5月3日「児童文化会館開館式並びに本校に於いて同館主催の展覧会を主催、本校はベル博士歓迎のため独自の展覧会場を造る。」(註24)。祝賀文化祭りは4、5日の両日、広島商工会議所と本川小学校、児童文化会館であった(註25)。
ベル博士は5日午後1時より袋町小学校で運動会を見て、午後2時に本川小学校に着く(註26)。「ベル博士歓迎会午後より校庭に於て歓迎式記念撮影、三階広間に於て町内有志と合同の歓迎会を開き夕刻より区内松山氏宅に於て特別有志による歓迎会開催。松本滝藏先生ハーワード・ベル先生を本校の教育顧問に推戴す。」と本川小学校の日誌にある。当時、本川小学校には広瀬小学校と神崎小学校の児童も学んでいた。歓迎会には校区外の4町も含め、24の町から百名を超す参加者があった(註27)。この日、本川小学校ではベル博士来訪を記念し、県下初の少年赤十字団を結成している(註28)。9日ベル博士は再度児童文化会館に立ち寄り、午前11時12分発の進駐軍専用列車で帰京する(註29)。
1948年12月15日、酒井校長と後援会長が上京。ベル博士から近く帰国予定であるが、その前に広島に行きたいという話が出る(註30)。ベル夫人から光永夫人(後述)宛の手紙にも帰国の前に広島に行きたいと書かれていた(註31)。
1949年3月26日、「午前九時より卒業式、松本滝藏ベル両先生より祝辞あり。伝達す。」(註32)。
7月24日、「本校教育顧問ハワード・エム・ベル博士帰米に就き酒井校長越智PTA会長上京し送別の挨拶をなし、記念品を贈る。」(註33)。
1949年8月10日付の越智抽一会長の校舎建設の陳情書にも、ベル博士への感謝と、本川小学校と米国の子ども達との交流が日米親善に寄与するとある(註34)。当時の交通状況や生活を考えると、3度もの上京は大変だったと思う。ベル博士に、心から感謝の思いを伝えたかったに違いない。
帰国したベル博士夫妻から写真と手紙が本川小学校に届く。写真には着物を着た夫人と人形「道成寺」が映っている。手紙には、「生まれて53年間の間にたくさんの学校を知ったが、本川校ほど心に深くやきつけられた学校はない。戦災のひどい校舎で、寒いのにストーブもなく一生けんめい勉強していた本川校のこどもたちを、一日も忘れたことがない」とあった(註35)。
1952年5月3日「ハワードベル博士来広。出迎え。」、5日「ハワードベル夫妻来校。午後五時歓迎会。」(註36)。この時は浜井市長と松本代議士が同行した(註37)。
戦後間もなく、被爆地広島から一躍全国の子どもたちの人気を集めた児童雑誌「銀の鈴」や関連図書を出版した広島印刷(後の広島図書)という会社がある。広島からオール・ソウルズ教会に送った品の中に広島印刷がベル博士にお礼として送った漫画本『どんぐり太郎』が入っていた。同社が海外進出を考えていた1947年12月にアメリカに送った日英対訳の本である(註38)。国内でも12月に四国支局に届いている(註39)。プランゲ文庫の検閲願によると1万部発行、表紙には、1948年1月の検閲印が押されている。4人の子どもがこの本を見ている写真がワシントンの『イヴニングスター』紙に載る(註40)。この本が教会に届いた経路は、呉米軍政部からかと思われる。広島図書はGHQやCIEとは人脈があったからである。1948年5月8日、ベル博士は広島印刷を視察した。ティパーティ後に松井富一広島印刷会長宅で晩餐会があった(註41)。児童雑誌『ぎんのすず』の販売部数が伸びていた頃である。
1950年3月25日~6月11日に西宮市で開催された「アメリカ博覧会」にベル博士の寄贈書が出展されている。展示会場は、広島図書が設けた「ぎんのすず図書館」(アメリカ児童図書館)である。
ベル博士の広島での宿泊先は光永別荘という旅館であった。戦後、広島市内には宿泊施設が少なく、光永別荘は松本代議士の常宿であったためであると考えられる。ご子息寛治氏に2012年7月にお会いした。光永家は8月6日まで本通りで呉服店を営んでおられたが、お父様は被爆死された。井口に自宅が残っていたので、お母様が改装して旅館を始められた。寛治氏がベル博士に会われた時は、1948年5月で広島高師(現広島大学)附属小学校の6年生であった。当時の事を次のように語られた。「博士は子供好きだったし、口にこそ出さなかったものの、父親を原爆で亡くした私を『原爆の子』と見做して同情を寄せ、私を慰めるために、当時話題になっていた生卵を立てることを一緒にやったり、博士が自分の好きな『荒城の月』を歌詞なしで歌ってくれた。そして、博士が帰京する際には母と姉と3人で広島駅に見送りに行き、駅の貴賓室に通されるほど親しい間柄になっていた。」
その年の11月、お母様と寛治氏は上京し、日比谷のベル博士の事務局を訪ね、その日、田園調布のベル博士宅にて一泊。近所の紳士が通訳をし、楽しいひとときを過ごされた。この旅のお礼にお母様は夫人に着物を送られた。翌年の3月8日付で夫人からお礼状が写真数枚と一緒に届いた。
1952年にベル夫妻が宿泊された時、寛治氏は高校1年生であった。少年から青年への過渡期にあり、無口になった寛治氏に、ベル博士は「カンジは虚無僧になった。」と言って寂しそうだったそうである。寛治氏は、「私は原爆に対してまだ確固たる考えはなかったが、後に、アメリカの原爆投下に対して批判を抱くようになっても、それがベル博士に及ぶことはなかった。」と述懐されている。
多くのGHQ 、CIE関係の人が広島の施設を訪問したが、帰国後も子ども達と交流を続けた例は少ない。ベル博士は本川小学校の子ども達の作品を大切に保存し、2013年に甥のホワイティング氏からハワイ日本文化センターに寄贈された。作品は1948年1月と1952年5月に作成されたもので、この度の里帰り展「ベル博士とひろしまの児童文化」(会場:広島市立中央図書館 会期:2015.12.12~2016.1.24)で、展示されている1952年に6年生だった男子の作文を読んだ。「『ベル先生が五日にいらっしゃるよ』とお母さんに知らせてあげると、お母さんはタンスの中から四年前にもらったようようを出して『アメリカからベル先生のおかげでおくっていただいたのですよ。』となつかしそうに話されました。」とあり、気持ちが伝わる内容である。
なお、オール・ソウルズ教会にあった作品48点の一部も2010年に里帰りしている。
このように、今日まで大切に引継がれてきた資料を見ていると、ベル博士は、子ども達の気持ちのこもった贈り物を大切に保存し、未来の広島に希望を託したことが伝わってくる。
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