鈴木三重吉と「赤い鳥」の世界 制作:広島市立中央図書館

「赤い鳥」とは

「赤い鳥」とは

「赤い鳥」の軌跡

創刊号は菊判、定価18銭であった。清水良雄の斬新な表紙絵と文学性の高い内容が評判を呼び、発行1万部のうち、返品は1割に満たなかったという。「赤い鳥」刊行を契機とする童話、童謡の盛り上がりは、「おとぎの世界」(山村暮鳥ら)、「金の船」(野口雨情ら 後に「金の星」に改題)、「童話」(千葉省三ら)など児童雑誌の創刊へつながり、各誌が競い合うことで日本の児童文学、児童文化が一気に開花した。
しかし、大正12年(1923年)9月の関東大震災後は、深刻な経済不況をもたらし、廃刊に追い込まれる雑誌も出はじめる。最盛期には発行部数3万部を越えた「赤い鳥」も資金繰りが悪化し、版型を大型化するなどイメージの刷新を図るが、昭和3年(1928年)、やむなく休刊となった。
昭和6年(1931年)1月の会員制による復刊後、北原白秋が三重吉との衝突によって「赤い鳥」から去り、「少年倶楽部」に代表される大衆雑誌が子どもたちを魅了していく状況にあって、三重吉は精力的に作品を書き続けた。昭和11年(1936年)6月、三重吉が肺がんで亡くなり、「赤い鳥」は8月号をもって終刊。10月には360ページにおよぶ「鈴木三重吉追悼号」が出版され、「赤い鳥」は幕を閉じたが、多くの名作とともに「赤い鳥」の影響は現在もなお輝きとして残っている。

「赤い鳥」の童話

三重吉は、「赤い鳥」によって明治以来の教訓的なお伽噺にかわる、新たな童話の創作を目指す。お伽噺について「読み物ではあっても断じて文学ではない」と評し、「さしあたっていい言葉がないから一時僕は童話と呼ぶつもりだが、日本の子供のためには僕は一流の文学者が進んで執筆しなければ嘘だと思う」と考えた。創刊に向けて会員募集のため配付されたプリントには、“現文壇の主要なる作家であり又文章家としても現代一流の名手として権威ある多数名家の賛同を得”たとある。文壇の作家が子どもを対象とした作品を書くこと自体珍しかった時代にありながら、創刊当時の「赤い鳥」へは作家達からオリジナルの童話が寄稿され、今に伝わる数多くの名作が誕生する。
また、昭和6年(1931年)の復刊後の「赤い鳥」では、平塚武二や坪田譲治、新美南吉のように、「赤い鳥」に投稿した作品が認められ、童話作家となった新人が活躍した。文章に対して厳しい眼を持っていた三重吉の評価を受けた、これらの新しい作家達が、「赤い鳥」終刊後も現代につながる日本の児童文学を開拓し、担っていく。

「赤い鳥」の童謡

鈴木三重吉が「赤い鳥」を通して望んでいたことは芸術として高い価値を持つ童謡であり、北原白秋が中心となり、作曲者の成田為三、草川信、山田耕筰などの協力を得て、「赤い鳥童謡」の世界を構築した。白秋が生涯に残した童謡は1,200編を超えるが、「赤い鳥」に発表した300編以上の中に彼の代表作の多くが網羅されているといえる。また、募集した白秋選の童謡欄からは巽聖歌や与田凖一ら詩人が育った。
「赤い鳥」創刊当時西條八十は全く詩から離れ、出版業を営んでいた。無名の八十を突然訪ね、再び詩筆を握らせた三重吉の功績は大きい。自らの姿を重ね合わせた「かなりや」は八十再生の記念作であり、芸術童謡の代表作である。処遇上の不満と、白秋との対立などから三年間で「赤い鳥」を去るが、八十の童謡の最盛期もこの三年間であった。

「赤い鳥」の画家

「赤い鳥」は大正7年(1918年)7月から昭和11年(1936年)8月まで、途中2年間の休刊をはさんで約17年間続き、その表紙絵や口絵、挿絵、飾絵などに子どもたちの美術的情操を育む童画作品を数限りなく載せて、日本の近代的な児童出版美術の成立を担った。
しかし、童話や童謡、童話劇の分野では、その書き手の実数が数十に及んだのに対し、「赤い鳥」に絵を描いたのは12、3人のみで、他の分野と比較すると極めて少ない。その中でも、清水良雄の仕事量が圧倒的に多く、他には、鈴木淳、深沢省三、前島ともの3人に集中している。これは鈴木三重吉の清水に対する深い人間的信頼関係と美的嗜好によるもので、三重吉は清水の推す画家でないと長くは採用しなかった。

多彩な取り組み

「赤い鳥」には、様々な読み物や企画が掲載された。創刊時、オリジナルの童話作品を「創作童話」と呼んでいたのに対し、翻訳や翻案作品については「童話」と表現し、海外の民話や文学作品も多く掲載された。これら「再話」は、単なる和訳ではなく、作品の雰囲気を残しつつ、日本の子どもが理解しやすいように説明や書きかえが加えられたもので、三重吉自身も「ピーターパン」や「ロビン・フッド物語」をはじめとする多くの再話を発表した。
また、お伽噺にかわる新しい童話を提唱していたように、明治のお伽芝居にかわる童話劇も発表した。久保田万太郎や小山内薫などが参加し、大正期の芸術自由教育の興隆と新劇運動の高まりのなかで誕生した佳作は、学校劇として学校教育にも取り入れられるようになる。
科学読物や知識読物とよばれるページでは、若手の科学者がそれぞれの研究分野で子ども向けの文章を書いた。寺田寅彦が「八条年也」の名で発表した「茶碗の湯」は、後に名作として、小学校の国語教科書に採用された。

表現する子どもたち

読者である子どもたちから、綴方や自由詩、自由画を募集し、選評とともに「赤い鳥」誌上で掲載する取り組みも人気を集めた。この投稿欄は、子どもたちの生活実感や素朴な感覚を表現するよう指導し、児童尊重や個性尊重といった新しい教育理念を支持する小学校教師らを通じて、子どもたちへと広がった。
綴方を三重吉、自由詩を白秋、自由画は山本鼎が担当した。特に三重吉は「赤い鳥」復刊を前にして、綴方の講演に全国各地を回り、「赤い鳥」投稿欄に集まった秀作は『綴方読本』としてまとめられた。なお、この投稿欄の中には、金子みすゞや岡本太郎、大岡昇平のように、作家や芸術家として将来活躍する名前を見つけることができる。

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