鈴木三重吉と「赤い鳥」の世界 制作:広島市立中央図書館

「赤い鳥」とは

「赤い鳥」に関わった作家たち

※作家名をクリックすると、解説が表示されます。

主宰者

鈴木三重吉(すずき みえきち)

明治15年(1882年)9月29日~昭和11年(1936年)6月27日
広島市猿楽町(現 中区紙屋町)生まれ。
広島県立第一中学校、第三高等学校を経て、明治37年(1904年)より東京帝国大学英文科に入学、夏目漱石の講義を受ける。翌年休学し、療養のため能美島に滞在。ここで得た題材を短篇「千鳥」に書き上げ、漱石の推賛の辞とともに「ホトトギス」明治39年5月号に掲載される。翌年、第2作「山彦」を発表し、好評を得る。同年処女短編集『千代紙』を刊行、以後「お三津さん」「烏物語」などを雑誌に発表する。卒業後は教職を務めつつ、小説家として旺盛な創作活動を続け、繊細で抒情的な作風で『返らぬ日』『小鳥の巣』『櫛』『桑の実』など刊行する。大正5年(1916年)の長女すず誕生をきっかけに童話雑誌の創刊を構想し、処女童話集『湖水の女』や『世界童話集』を出版した。大正7年(1918年)、雑誌「赤い鳥」を創刊。自ら作品を執筆しながら、主宰として手腕を発揮し、童話・童謡を中心に多くの名作を送り出した。児童からの作品募集では綴り方の指導を担当し、後に『綴方教室』を刊行する。また、「赤い鳥」から新しい作家を輩出し、わが国の近代児童文化に不朽の功績を残した。
昭和11年(1936年)6月死去。没後、肺がんと診断される。

作家

芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)

明治25年(1892年)~昭和2年(1927年)
東京生まれ。東大在学中、豊島与志雄らの第三次「新思潮」に参加。大正5年(1916年)、同級生の久米正雄、菊池寛らと創刊した第四次「新思潮」創刊号に載せた「鼻」が夏目漱石から絶賛される。「今昔物語集」などから取材した「羅城門」や「芋粥」のように、歴史的素材に独自の解釈を加えた短編小説を続けて発表し、文壇の寵児となった。
人間のエゴイズムを描く「蜘蛛の糸」は「赤い鳥」創刊号を飾り、「杜子春」(大正9年7月号)とともに児童文学の名作として読み継がれている。「赤い鳥」へは、他に「犬と笛」「魔術」「アグニの神」を発表した。

有島 武郎(ありしま たけお)

明治11年(1878年)~大正12年(1923年)
東京生まれ。札幌農学校卒業後アメリカへ留学し、帰国後は母校の教師となる。明治43年(1910年)創刊の「白樺」へ参加、留学中に書いた「かんかん虫」「老船長の幻覚」などを発表する。東京へ転居後、本格的な作家活動に入り「カインの末裔」「小さき者へ」「生れ出づる悩み」「或る女」など代表作を発表した。童話は、「赤い鳥」大正9年8月号掲載の「一房の葡萄」をはじめ、新聞や雑誌へ6編を残した。「一房の葡萄」は、幼少期の小事件を題材に、同級生の絵の具を盗んでしまった少年の悔恨とそれを受け止めた女性教師との絆を描いた名作である。

宇野 浩二(うの こうじ)

明治24年(1891年)~昭和36年(1961年)
福岡県生まれ。早稲田大学中退後、「少女の友」など雑誌へ童話を書き始め、大正5年(1916年)に第一童話集『哀れ知る頃』を出版。大正8年(1919年)に発表した「蔵の中」、「苦の世界」により新進作家としての評価を得る。代表作に「子を貸し屋」「枯れ木のある風景」などがあり、戦後は文芸評論の分野や芥川賞選考委員としても力を注ぐ。「赤い鳥」に発表した「蕗の下の神様」や「或アイヌ爺さんの話」は、アイヌの伝承を題材にした物語性豊かな宇野童話の代表作である。

小川 未明(おがわ みめい)

明治15年(1882年)~昭和36年(1961年)
新潟県生まれ。ペンネームの「未明」は、師である坪内逍遥による。早稲田文学社で竹久夢二と編集した「少年文庫」は1巻で終わったが、未明と児童文学を結びつける一つの契機となった。明治43年(1910年)に日本最初の創作童話集とされる『赤い船』を出版。「赤い鳥」へは「黒い人と赤い橇(そり)」、「月夜と眼鏡」などを発表した。雑誌「おとぎの世界」の監修を経て、大正15年(1926年)には小説の筆を折り、童話に専念することを宣言する。色彩と詩情の豊かな創作童話は、生涯で1,000編を超えるとも言われ、「日本のアンデルセン」とも呼ばれている。

小山内 薫(おさない かおる)

明治14年(1881年)~昭和3年(1928年)
広島市生まれ。東大英文科在学中から森鷗外などの知遇を得て、演劇、文学活動に入り、明治40年(1907年)第一次「新思潮」を創刊。明治42年(1909年)には市川左団次らと「自由劇場」を設立、西欧の演劇理論を取り入れた新劇を生み、大正13年(1924年)には土方与志らと「築地小劇場」を興すなど日本近代演劇の開拓者として活躍した。「赤い鳥」へは、日本や西洋の昔話を題材に童話や童話劇を寄せた。童話は、『石の猿』(赤い鳥童話集 第6冊)としてまとめられ、「ほくち箱」や「イルゼベルの望み」などは童話劇集『三つの願ひ』に収められた。

菊池 寛(きくち かん)

明治21年(1888年)~昭和23年(1948年)
香川県生まれ。京都大学卒業後、時事新報社記者などを経て、大正12年(1923年)私費で「文芸春秋」を創刊し、昭和10年(1935年)には芥川賞・直木賞を設立した。この間の創作活動では、第三次・第四次「新思潮」へ参加、戯曲「父帰る」などを発表する。小説「無名作家の日記」「恩讐の彼方に」などにより文壇での地位を確立し、大正9年(1920年)には大衆小説「真珠夫人」を発表した。「赤い鳥」での「一郎次二郎次三郎次」(大正8年9月号)以後、武将伝などの児童文学も残した。童話集『三人兄弟』(赤い鳥の本 第4冊)が刊行されている。

久保田 万太郎(くぼた まんたろう)

明治22年(1889年)~昭和38年(1963年)
東京生まれ。慶應義塾大学在学中に「三田文学」へ小説や戯曲を発表、永井荷風らの高い評価を得る。小説・戯曲とも、地元浅草など下町を舞台とする作品が多い。岸田国士らと文学座の創設に参加し、東京中央放送局(現 NHK)の演芸、音楽課長や俳句雑誌「春燈」主宰など多彩な分野で活躍をみせた。当初「赤い鳥」には、童話を発表するが、三重吉の勧めにより大正9年4月号の「ブロオニイ」(「ふくろと子供」に改題)以後、子ども達を観客とする童話劇を書きはじめる。代表作に「北風のくれたテイブルかけ」などがある。

佐藤 春夫(さとう はるお)

明治25年(1892年)~昭和39年(1964年)
和歌山県生まれ。中学時代より雑誌の歌壇に投稿、卒業後上京して生田長江に師事する。詩や小説を創作し、谷崎潤一郎の推薦により文壇デビュー。「田園の憂鬱」や「美しき町」などを発表、流行作家としての地位を築いた。一方、処女詩集『殉情詩集』後も詩人としての活動を続け、「秋刀魚の歌」などが知られる。「蛙の王女」(大正7年9月号)や「大熊中熊小熊」(大正7年12月号)の童話により「赤い鳥」の初期を支え、「いたづら人形の冒険」や「実さんの胡弓」を寄稿した。また、児童雑誌「童話」にも「蝗の大旅行」など童話を発表している。

坪田 譲治(つぼた じょうじ)

明治23年(1890年)~昭和57年(1982年)
岡山県生まれ。小川未明に影響を受け、早稲田大学卒業後創作活動に入る。大正15年(1926年)、短編小説「正太の馬」が雑誌「新小説」へ掲載される。深沢省三の紹介により原稿「河童の話」が三重吉に認められ「赤い鳥」に掲載された。これを機に復刊後の「赤い鳥」の中心作家となる。経済的には窮乏生活が続き、実家の製織所で働くなど苦労が続いたが、昭和10年(1935年)に発表した小説「お化けの世界」が出世作となる。代表作は「風の中の子供」「子供の四季」など。昭和38年(1963年)、私財を投じて童話雑誌「枇杷の実学校」を創刊し、松谷みよ子、あまんきみこら童話作家を育成した。

豊島 与志雄(とよしま よしお)

明治23年(1890年)~昭和30年(1955年)
福岡県生まれ。東大仏文科在学中に芥川龍之介や久米正雄らと第三次「新思潮」を起こし、小説や翻訳を発表した。大正6年(1917年)に短編集『生あらば』を刊行する。代表作となる小説『野ざらし』『山吹の花』、随筆集『書かれざる作品』などを発表する一方で、『レ・ミゼラブル』や『ジャン・クリストフ』、『千一夜物語』といった翻訳は、現在も名訳として読み継がれている。児童文学においても海外文学への深い教養をもとに、評価の高い作品を残し、「赤い鳥」には「天下一の馬」「天狗笑」などを書いた。赤い鳥社刊行の『夢の卵』(昭和2年)ほか、童話集も多く出版している。

新美 南吉(にいみ なんきち)

大正2年(1913年)~昭和18年(1943年)
愛知県生まれ。中学2年の頃から文学に興味を持ち、雑誌への投稿や、地元の若者と同人誌を発行するなど創作活動をはじめる。小学校の代用教員であった昭和6年(1931年)、愛読誌である「赤い鳥」5月号へ童謡「窓」が初めて掲載された。またこの年、北原白秋門下であり、生涯にわたり「兄さん」と慕った巽聖歌と出会う。以後同年8月号に童話「正坊とクロ」、11月号に「張紅倫」など毎月のように作品が掲載されたが、昭和8年の白秋と「赤い鳥」の絶縁をきっかけに南吉も「赤い鳥」を離れることになる。昭和7年1月号の「ごんぎつね」は、「赤い鳥」を代表する名作童話の一つとなった。

詩人、作曲家

北原 白秋(きたはら はくしゅう)

明治18年(1885年)~昭和17年(1942年)
福岡県生まれ。明治39年(1906年)、与謝野寛の新詩社に参加、森鷗外や上田敏の評価を得る。『邪宗門』(明治42年)や『思ひ出』(明治44年)を刊行、詩壇の第一人者として活躍する。「赤い鳥」創刊時より、童謡の創作と応募童謡の選評、地方童謡の蒐集、児童の自由詩の指導などを担う。「赤い鳥小鳥」「あわて床屋」「からたちの花」など多数発表。互いの激しい性格から三重吉と衝突、昭和8年4月号を最後に「赤い鳥」と絶縁する。その生涯で1,200編を超える童謡を残したとされる。

草川 信(くさかわ しん)

明治26年(1893年)~昭和23年(1948年)
長野県生まれ。童謡を中心とした歌曲やバイオリン曲を作曲した。留学する成田為三の後を受け、大正10年(1921年)より「赤い鳥」へ登場、「夢の小函」「月の夜」など、本格的に童謡の作曲に取り組んだ。北原白秋の作品に作曲したものがほとんどで、白秋の絶縁とともに「赤い鳥」を去った後も、雑誌「童話」「チチノキ」などに作品を発表。「揺籠のうた」や「どこかで春が」「夕焼小焼」などの作曲でも知られる。

西條 八十(さいじょう やそ)

明治25年(1892年)~昭和45年(1970年)
東京生まれ。早稲田大学在学中に日夏耿之助らと詩誌「仮面」を刊行、三木露風の詩誌「未来」に参加。第一詩集『砂金』(大正8年)で象徴詩人としての地位を確立した。「赤い鳥」大正7年11月号へ童謡詩「かなりあ」を発表、翌年5月号に成田為三作曲の曲譜が掲載され、童謡第1号となった。北原白秋とともに日本を代表する童謡詩人であり、創作した童謡詩は700編ともいわれる。「東京行進曲」や「青い山脈」、「蘇州夜曲」など歌謡曲の作詞家としても活躍。

巽 聖歌(たつみ せいか)

明治38年(1905年)~昭和48年(1973年)
岩手県生まれ。時事新報社に入り、雑誌「少年」「少女」の編集記者となり、詩や童謡を執筆。「赤い鳥」にも投稿し、大正14年10月号の「水口」は、北原白秋から激賞され、門下となる。昭和5年(1930年)、与田凖一と同人誌「乳樹(のちチチノキ)」を創刊、翌年童謡集『雪と驢馬』を刊行。新美南吉の童話集『おぢいさんのランプ』刊行のため奔走したことでも知られる。戦後は、児童詩教育に尽力し、小学校国語教科書の編集にも携わった。童謡「たきび」が著名。

成田 為三(なりた ためぞう)

明治26年(1893年)~昭和20年(1945年)
秋田県生まれ。東京音楽学校で山田耕筰に作曲を学び、在学中に「浜辺の歌」を作曲。耕筰から「赤い鳥」の作曲担当として推され、第1作目の西條八十「かなりあ」(大正8年5月号)の成功により童謡作曲家としての地位を確立し、「赤い鳥」童謡の中心となった。大正11年(1922年)1月からベルリンへ留学するが、帰国後も昭和3年(1928年)まで童謡の作曲を担当した。北原白秋の作品への作曲が多く、「雨」「りすりす小栗鼠」「赤い鳥小鳥」「ちんちん千鳥」などがある。

山田 耕筰(やまだ こうさく)

明治19年(1886年)~昭和40年(1965年)
東京生まれ。東京音楽学校声楽科卒業後、ドイツへ留学し作曲を学ぶ。帰国後は、作曲のほか交響楽団の指導や演奏活動により西洋近代音楽の紹介に力を注ぐ。日本語による歌曲の創作を通じて多くの詩人と出会い、特に北原白秋との深い交流は雑誌「詩と音楽」の刊行や「赤い鳥」での童謡発表へつながった。西洋音楽の旋律を取り入れたメロディーは、子どもが歌う童謡であると同時に、大人が歌って聴かせる童謡としても、その芸術性が評価されている。耕筰・白秋による「からたちの花」(童謡詩のみ大正13年7月号に掲載)は、「赤い鳥童謡」の代表作である。

与田 凖一(よだ じゅんいち)

明治38年(1905年)~平成9年(1997年)
福岡県生まれ。小学校教師時代に「赤い鳥」に投稿、「ねむの木」「ほうぜよ」「木鼠」などの詩を発表した。北原白秋に認められ、昭和3年(1928年)に上京し、白秋に師事。後に「赤い鳥」などの編集と並行して創作活動を続け、巽聖歌らと雑誌「チチノキ」を創刊。昭和8年(1933年)には童謡集『旗・蜂・雲』を刊行した。戦後は『父の手紙』など童話集や評論集も発表、多数の児童文学賞の選考委員も務めた。ほかに童謡「小鳥の歌」などの作品がある。

画家

清水 良雄(しみず よしお)

明治24年(1891年)~昭和29年(1954年)
洋画家、童画家。東京生まれ。小学校時代は神戸で最も長く暮らしたことが、その絵に異国情趣をかもす。文展で大正6年(1917年)に「西片町の家」、翌7年「二人の肖像」、8年帝展「梨花」と連続特選。帝展審査員になり、光風会に所属し、重鎮として過ごす。親友の丸尾彰三郎の紹介で鈴木三重吉と出会い、『黄金鳥』によって童画家としてのスタートを切る。三重吉は清水の人間性とその絵に絶対的信頼を寄せ、「赤い鳥」創刊は「清水君がいて挿絵に安心できるから、その気になった」と語る。特に表紙絵は全196冊のうち163冊描き、この雑誌のイメージを視覚的に広めるという大きな役割を果たした。

鈴木 淳(すずき あつし)

明治25年(1892年)~昭和33年(1958年)
佐賀県生まれ。東京美術学校在学中の大正3年に「花」が文展に初入選。6年に入選した「秋近し」は宮内省が買い上げた。美校研究科在籍中に一級上の清水良雄の紹介で、鈴木三重吉と会い、「赤い鳥」大正7年11月から挿絵を、同12月は表紙、口絵、挿絵と全冊の絵を描いた。「赤い鳥」執筆当初は清水の絵に似た画風で描いていたが、次第に個性を発揮していき、結果誌面の活性化がはかられた。「赤い鳥」表紙絵は16冊。清水が晩年熱心に取り組んだ山本有三編集国語教科書の挿絵の仕事も手伝った。

深沢 省三(ふかざわ しょうぞう)

明治32年(1899年)~平成4年(1992年)
洋画家、童画家。岩手県生まれ。妻は、深沢紅子(洋画家)。大正9年(1920年)帝展で「九月」が初入選。当初生活のために三省堂の英語教科書の挿絵を執筆、そのために外国人の骨格を研究したことが後に役立つ。同郷の先輩の紹介で鈴木三重吉と出会い、「赤い鳥」に絵を描くようになる。この雑誌に関わりはじめてから鈴木三重吉追悼号までの17年間に表紙絵12枚を含め、口絵・挿絵・飾り絵など合計2,750点を描いた。鈴木淳と同様に初めのうちは清水良雄の描き方に似せて絵を描いていた。無名だった坪田譲治を三重吉に紹介し、その挿絵のほとんどを担当したことでも知られる。岩手大学教授を務める。

前島 とも(まえじま とも)

明治37年(1904年)~平成6年(1994年)
童画家。日本画家。茨城県生まれ。夫は、松山文雄(漫画家、童画家)。少女期に「赤い鳥」の絵を見た感激が忘れられず、特に清水良雄の絵に憧れ続ける。女子美術学校在学中は姉宅に寄宿し、同じ町内にあった清水の家を訪ねた。清水の推薦で復刊後の「赤い鳥」昭和6年3月号から挿絵を描きはじめ、自由詩と入選綴り方欄を担当し、現実をありのままに表現しようとする子どもの作品にマッチする挿絵を、登場以後最終刊まで欠かさず描いた。「コドモノクニ」などの絵雑誌でも活躍する。昭和7年松山文雄らと新ニッポン童画会を結成。戦後は奥村土牛の画塾に学び、日本画を制作した。

山本 鼎(やまもと かなえ)

明治15年(1882年)~昭和21年(1946年)
愛知県生まれ。東京美術学校西洋画科卒。若手芸術家のグループ、パンの会に参加し北原白秋らと知り合う。5年間のフランス留学を経て、帰国後は版画を中心とする創作活動の傍ら、子どもの個性を尊重する自由画教育運動を提唱し、大正10年(1921年)『自由画教育』を出版する。雑誌「金の船」では大正8年(1919年)11月の創刊時から、「赤い鳥」では翌年1月から児童の自由画を募集、その選者となった。また、長野県上田市を拠点に農民芸術運動を展開し、工房や生産組合も組織する活動は、全国的にも影響を与えた。白秋の妹と結婚、白秋の葬儀委員長も務めた。

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