広島を知る

広島ゆかりの人物情報

「広島ゆかりの人物の紹介」は、広島市の歴史に足跡を残した著名な人物の情報を収集、発信し、市民の皆様に活用していただくことを通して、郷土広島への愛 着と誇りを持つことができるようにするとともに、地域の歴史的・文化的資源を生かした千客万来のまちづくりに寄与することを目指すものです。
ここでは、政治、経済の発展や文化の振興等に貢献することにより、広島市の歴史に足跡を残した著名な人物のうち、図書館に伝記等の文書資料のある主な人物を紹介します。
現在、これらの人物に関する資料は、主に中央図書館3階の郷土資料を収集する広島資料室にあります。詳しくは、職員におたずねください。
今後は、このコーナーの人物や内容の充実に努めていきます。これらの人物に関する資料や情報を収集していますのでご協力をお願いします。

歴史分野(明治以前)

広島城を築き城下の町割を定め、現在の広島市域の基礎を作った毛利輝元、毛利氏に続いて広島を治世した福島正則、浅野長晟、武家茶道を創始した上田宗箇、幕末期の儒者で文人としても知られる頼山陽などを紹介します。

もうり てるもと
毛利 輝元

(1553~1625)
江戸初期の武将
安芸国郡山城主から中国地方を制圧した毛利元就の長子隆元の子である。隆元急死を受けて跡を継ぎ、拡大した領国の中心として広島の地へ進出することとし、居城を築き、今日の広島の礎を成すこととなるが、関ヶ原の戦い後、防長二ヶ国に領国を減ぜられる。

ふくしま まさのり
福島 正則

(1561~1624)
織豊期~江戸初期の
武将・大名
尾張国に生まれる。幼少から豊臣秀吉に仕え、賎ヶ岳七本鑓の一人。各地を転戦し、功を立て、伊予今治、尾張清洲城主となる。秀吉の死後、対立していた石田三成を失脚させ、関ヶ原の戦いにおいても、徳川家康の東軍の主力として活躍し、戦後安芸広島49万石を領することとなる。大坂の陣の後、広島城の石垣の修築等を無届けとして処断され、信濃川中島へ蟄居させられる。

うえだ しげやす(そうこ)
上田 重安(宗箇)

(1563~1650)
江戸初期の武将、
浅野家家老、茶人
尾張国に生まれる。丹羽長秀、明智光秀に仕えた後、豊臣秀吉に仕える。関ヶ原の戦いでは石田三成方についたため、禄を離れ、食客として、阿波の蜂須賀家政に遇され、その後紀伊の浅野幸長に招かれる。この間、徳島城内庭園や紀伊粉河寺の作庭に携わる。その後、浅野家の安芸移封に伴い、広島の地に赴き、藩主別邸の縮景園等を築いた。また、千利休、古田織部について修めた茶道を広島の地に広めた。茶道上田宗箇流の始祖。

あさの ながあきら
浅野 長晟

(1586~1632)
江戸初期の武将、大名
豊臣秀吉の縁戚にあたり、父長政も秀吉に重用され、長晟も幼少から仕えるが、その死後は徳川家康に仕える。関ヶ原の戦い後、紀伊国和歌山を領していた兄幸長の死でその遺領を継ぎ、大坂の陣後には功により安芸・備後両国で42万石を領する。以後、浅野氏が明治期まで広島を一貫して領した。

らい さんよう
頼 山陽

(1780~1832)
江戸後期の儒学者、
漢詩人、歴史家
大坂に生まれる。広島藩儒の父頼春水に従い、広島に移る。名は襄(のぼる)。
江戸に出て尾藤ニ洲らに学ぶ。21歳の時、脱藩するがすぐに連れ戻され、小町の自邸内に幽閉される。のち、神辺の菅茶山の廉塾を経て京に上り、また各地を遍歴して、文人墨客と交わり、多くの詩文などを残した。幽閉中に著わした「日本外史」は幕末期の人々に大きな影響を与える。
中区袋町(旧日銀広島支店横)に頼山陽史跡資料館、中区東平塚町(鶴見橋西詰京橋川緑地帯)に歌碑がある。

みやざき やすさだ
宮崎 安貞

(1623~1697)
江戸時代前期の農学者
安芸の国広島生まれ。広島藩士宮崎儀右衛門の次男として生まれ、正保4年(1647年)25歳のとき福岡藩二代藩主黒田忠之に200石で仕えていたが、30歳をすぎて職を辞し、女原村(福岡市西区周船寺)で開墾事業を行い、農業に従事し、農民の指導を行った。当時農業の先進地域であった畿内各地、さらに中国地方などをめぐり古老の農業体験などを収集し、交流のあった貝原益軒の本草学の影響も受け、農業技術の発展を図った。元禄10年(1697年)に公刊された「農業全書」全10巻は、 水戸光圀が絶賛したものであり、徳川吉宗の座右の書にもなった。大蔵永常・佐藤信淵とともに江戸期の三大農学者と称されている。

おか びんざん
岡 岷山

(1734-1806)
広島藩士・日本画家
広島生まれ。名を煥、通称は利源太、字は君章、岷山と号した。幼少の頃から画道を志し、広島藩の絵師であった狩野派の勝田幽渓に学び狩野派の画法を習得。その後、江戸で宋紫石の門に入り、江戸・上方で流行した沈南蘋流の精細な花鳥画を会得した。7代藩主浅野重晟に仕え、初めは藩の歩行組の絵師であったといわれ、安永10年(1781年)に奥詰次席に、天明3年(1783年)に奥詰に昇進。藩命または藩命に準じた公務としての絵画制作活動、出頭画人として江戸や国元で求めに応じ筆を振るう活動、藩主をはじめとした家中や門人などへの指導で多忙を極めた。三人の子がありそれぞれに絵を指導。没後、岡家代々の菩提寺である心行寺に葬られる。「暁竹図」「百花百虫屏風」「倣呂廷根之図」「都志見往来日記・同諸勝図」などがある。

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政治、経済分野

広島出身の初の総理大臣であり、軍縮に貢献した加藤友三郎、広島市議会議長から国政に転じ、大蔵大臣になった早速整爾、広島県令(後の県知事)として赴任し、宇品築港を完成させた千田貞暁などを紹介します。

せんだ さだあき
千田 貞暁

(1836~1908)
政治家
薩摩藩(鹿児島県)に生まれる。戊辰戦争にも従軍する。
明治13年(1880年)広島県令(後の知事)となり、殖産興業や道路建設など多岐にわたる施策を行った。中でも宇品の埋め立て、築港を強力に進め、明治22年(1889年)宇品港を完成。同年、新潟県知事に転任。以後和歌山、愛知、京都、宮崎の知事を務める。明治31年(1898年)には男爵、明治37年(1904年)には貴族院議員となる。南区宇品御幸一丁目の千田廟公園には、その功労を記念する像があり、千田町という地名も千田貞暁の名にちなんで命名されたものである。

かとう ともさぶろう
加藤 友三郎

(1861~1923)
海軍軍人、政治家
広島市大手町(広島市中区)に生まれる。父は広島藩士。子爵。
明治16年(1883年)海軍少尉に任官し、日露戦争では連合艦隊参謀長を務める。第2次大隈内閣、寺内内閣、原内閣、高橋内閣の海相を歴任し、大正10年(1921年)ワシントン軍縮会議の首席全権委員を務める。大正11年(1922年)、広島県では初めてとなる、第21代内閣総理大臣に就任し、シベリア撤兵、海軍軍縮条約を履行したが、在任中に没する。比治山公園に像が建てられたが、現在は台座のみが残っている。中区大手町三丁目の大手町第2公園には「加藤友三郎生誕の地」の石碑がある。
(中区基町の中央公園内に銅像が新しく建立され、没後85年にあたる平成20年(2008年)8月24日除幕式が行われた。)

はやみ せいじ
早速 整爾

(1868~1926)
政治家
広島県沼田郡新庄村(広島市西区)に生まれる。旧姓、中山。
明治20年(1887年)東京専門学校政治経済英学科(現・早稲田大学)を卒業。明治22年(1889年)芸備日日新聞社社主 早速家の養子となり、同年社長兼主筆として同社を経営。
明治29年(1896年)県会議員、明治35年(1902年)衆議院議員、明治43年(1910年)広島市議会議長歴任後、大正5年(1916年)憲政会の結成に参加、財政通、経済通として頭角を現し、大正14年(1925年)の加藤高明の憲政会内閣で農相、更に翌年の若槻内閣では蔵相となるが、病気のため、3ヶ月後亡くなる。
生前の功績により昭和4年(1929年)比治山公園に銅像が建てられたが、第二次世界大戦時の資源回収で取り除かれ、現在は台座のみが残っている。

まつだ じゅうじろう
松田 重次郎

(1875~1952)
実業家、マツダ創業者
安芸郡仁保島向洋(広島市南区)に生まれる。
明治39年(1906年)松田式ポンプを発明し、大正4年(1915年)には松田製作所を設立する。大正9年(1920年)コルクを製造する東洋コルク工業の創立に参加し、翌年に社長となる。その後社名を東洋工業にあらため工作機械メーカーに転身し、昭和6年(1931年)には3輪トラックの製造を開始し自動車業界に進出する。昭和26年(1951年)会長。
多年の労をたたえ、比治山公園に銅像が建てられた。

あわや せんきち
粟屋 仙吉

(1893~1945)
被爆時の広島市長
山口県に生まれる。東京帝国大卒。
大正8年(1919年)内務省に入り、以後、昭和8年(1933年)大阪府警察部長等を務め、昭和18年(1943年)7月請われて広島市の第18代市長(官選)となる。昭和20年(1945年)8月6日市長官舎で被爆し死亡する。

いけだ はやと
池田 勇人

(1899~1965)
政治家
広島県竹原市に生まれる。京都帝国大卒。
昭和22年(1947年)大蔵省事務次官。昭和24年(1949年)衆議院議員となり、第3次吉田内閣では蔵相としてドッジ・ラインによる財政の均衡に務める。昭和27年(1952年)通産相、昭和35年(1960年)~昭和39年(1964年)首相となり、三次にわたる内閣を組織し、所得倍増を唱え、高度経済成長政策を推進する。広島城東側堀横に像がある。

なだお ひろきち
灘尾 弘吉

(1899~1994)
政治家
広島県佐伯郡大柿町(江田島市大柿町)に生まれる。東京帝国大卒。
内務省に入り、大分県知事などをへて、終戦時は内務省次官。公職追放を受けたが、解除後の昭和27年(1952年)衆議院議員となる。石橋内閣をはじめとして文相を通産6期つとめ、そのほか厚相、自由民主党総務会長なども歴任し、昭和54年(1979年)第61代衆議院議長となる。広島城西側堀横に像がある。

はまい しんぞう
浜井 信三

(1905~1968)
元広島市長
広島市三川町(広島市中区)に生まれる。東京帝国大卒。
昭和20年(1945年)広島市配給課長の時に被爆する。昭和22年(1947年)公選による初代の広島市長となる。広島市長在任は通算4期(昭和22年(1947年)~昭和42年(1967年)、中一期は渡辺忠雄市長)にわたり、毎年8月6日に核兵器廃絶と世界平和を希求して平和記念式典を開催するとともに、平和記念公園の建設、原爆ドームの保存をはかる。死去にあたり、「市民葬」を実施する。著作に「原爆市長」。平和記念資料館に胸像がある。

もりと たつお
森戸 辰男

(1888~1984)
社会学者・政治家・教育者
福山市生まれ。
大正5年(1916年)東京帝国大学の助教授に就任した。大正9年(1920年)経済学部の機関誌の創刊号に掲載した「クロポトキンの社会思想の研究」が問題となり、辞職。大原社会問題研究所に入る。昭和21年(1946年)社会党から立候補し、衆議院議員となる。当選は3回であり、片山・芦田内閣の文部 大臣にも就任した。政界を退いて後、昭和25年(1950年)初代の広島大学長、広島大学の整備、拡充に意を注ぐなど、地方文化、教育の発展に貢献した。退官後は引き続き中央教育審議会会長、日本育英会会長、NHK学園高校校長、日本ユネスコ国内委員会会長など教育関係の要職を歴任した。

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文化、芸術分野

旧制広島高等学校出身で、戦後の広島平和記念公園の競技設計などを手がけて、その地位を確立した丹下健三、平和記念公園ほかに多数の作品がある、御調町出身の彫刻家の円鍔勝三などを紹介します。

すぎむら はるこ
杉村 春子

(1906~1997)
女優
広島市西地方町(広島市中区)に生まれる。山中高等女学校卒。
昭和2年(1927年)上京し、築地小劇場の研究生、昭和12年(1937年)文学座の創立に加わり中心メンバーとなる。昭和20年(1945年)「女の一生」初演、昭和22年(1947年)三越劇場での「女の一生」の演技で第一回芸術院賞を受賞する。その後、舞台、映画・テレビで活躍する。昭和63年(1988年)「近松女敵討」で芸術祭賞を受賞する。

きむら いさお
木村 功

(1923~1981)
俳優
広島市千田町(広島市中区)に生まれる。文化学院文学部卒。
文化学院在学中に映画『ハワイ・マレー沖海戦』に出演。昭和19年(1944年)召集を受け約1年間の海軍生活を送る。昭和21年(1946年)「俳優座」に入団。昭和24年(1949年)黒澤明監督の『野良犬』に出演し大きな注目を集めた。昭和25年(1950年)「俳優座」を退団し「青年俳優クラブ」(後の「劇団青俳」)を結成。劇団の中心的存在として、舞台活動のかたわら、『山びこ学校』『真空地帯』『生きる』『雲ながるる果てに』『七人の侍』等多くの映画に出演。日本映画史に残る名優の一人である

えんつば かつぞう
圓鍔 勝三

(1905~2003)
彫刻家。本名勝二。
御調郡御調町(尾道市御調町)に生まれる。昭和7年(1932年)日本美術学校卒。
日本美術学校彫刻科在学中の昭和5年(1930年)年第11回帝展初入選、その後各種の賞を受賞する。昭和41年(1966年)日本芸術院賞を受賞、昭和45年(1970年)日本芸術院会員となり、昭和57年(1982年)には文化功労者に選ばれ、昭和63年(1988年)文化勲章を受章する。平成5年(1993年)郷里に円鍔記念館が開館。平和記念公園を中心に、広島市内に多数の作品がある。

まるき すま
丸木 スマ

(1875~1956)
画家
丸木位里の母
安佐郡伴村(広島市安佐南区)に生まれる。明治30年(1897年)飯室村(広島市安佐北区)の丸木金助と結婚。家業の船宿を手伝うかたわら農業に従事する。明治34年(1901年)長男位里出産。70歳を過ぎてから丸木位里・俊夫妻にすめられて絵を描き始める。昭和24年(1949年)広島県美術展に入選。昭和26年(1951年)~昭和28年(1953年)日本美術院展に入選、院友となった。昭和31年(1956年)81歳で死亡するまでに700点を超える厖大な数の絵を描いた。

まるき いり
丸木 位里

(1901~1995)
日本画家
安佐郡飯室村(広島市安佐北区)に生まれる。飯室尋常高等小学校卒。
田中頼璋らから日本画を学ぶ。水墨画に抽象的表現を持ち込み独自の画風をうちたてる。昭和16年(1941年)洋画家の赤松俊と結婚。
原爆投下の数日後に位里が、続いて俊が広島に入り約1ヶ月救援に携わる。昭和25年(1950年)~昭和57年(1982年)俊との共同制作による「原爆の図」15部作を発表。「原爆の図」は国内各地および世界20ヶ国以上で巡回展示され大きな反響を呼んだ。広島市現代美術館に「原爆の図」初期3部作の再制作版と「ひろしまの図」(俊との共同制作)がある。

おおた ちゅう
太田 忠

(1908~1971)
洋画家
広島市西蟹屋町(広島市南区)に生まれる。広島東高等小学校卒。
大正12年(1923年)日本国有鉄道広島機関庫に就職。機関車好きの中西利雄(洋画家)から小磯良平(洋画家)を紹介され、以後小磯に師事する。 昭和13年(1938年)から昭和38年(1963年)定年退職するまで三次市に住み、機関士のかたわら絵の道に励む。退職後2度渡仏し画境を広げた。県北の風景を独特の材質感と鮮やかな色彩で描いた作品を多く残している。

はまさき さはつし
浜崎 左髪子

(1912~1989)
日本画家
アメリカ合衆国ハワイ・ヒロ市に生まれる。間もなく広島に帰国。広陵中学校卒。
昭和5年(1930年)広島県美術展に初入選。新文展など多くの美術展に入選を果たす。戦後は広島県美術展の審査員を務め、美術館建設のための運動などの文化運動にも関わる。大作を発表するかたわら、包装紙などをデザインし、風格と明るい大らかさを併せ持つ作品を多数残す。

ふくい よしろう
福井 芳郎

(1912~1974)
洋画家
広島市的場町(広島市南区)に生まれる。大阪美術学校卒。
斉藤与里に師事して洋画を学ぶ。昭和6年(1931年)広島洋画研究所を開き、帝展・東光展などを中心に旺盛な創作活動を続け、昭和18年(1943年)より東光会会員。昭和20年(1945年)8月6日広島の原爆で被爆、その体験をもとに「ヒロシマの怒り」「黒い雨」をはじめとする原爆記録絵画を制作。戦後も日展などに出品し、昭和32年(1957年)には新協美術会の創立会員となった。

ひらやま いくお
平山 郁夫

(1930~2009)
日本画家
豊田郡瀬戸田町(尾道市瀬戸田町)に生まれる。東京美術学校(東京芸術大学)卒。
昭和20年(1945年)8月6日修道中在学時、勤労動員先で被爆する。昭和28年(1953年)第38回院展で初入選する。昭和48年(1973年)以 来東京芸大教授を務め、平成元年(1989年)から学長となる。平成10年(1998年)文化勲章受章。
平和記念公園平和記念資料館東館1階に「平和のキャラバン(東)」と地階に「広島生変図」、国際会議場には「平和のキャラバン(西)」の陶壁画がある。

たんげ けんぞう
丹下 健三

(1913~2005)
建築家
大阪府に生まれる。東京帝国大建築学科卒。
旧制広島高等学校出身で、戦後の広島平和記念公園の競技設計などを手がけて、その地位を確立する。香川県庁舎、国立屋内総合競技場、東京都庁などをはじめ、ユーゴスラビアのスコピエ再建都市計画、伊ボローニャの都市計画なども手がける。昭和55年(1980年)文化勲章受賞。平成17年(2005年)3月22日死去。

イサム・ノグチ
Isamu Noguchi

(1904~1988)
彫刻家
米国ロサンゼルスに生まれる。野口米次郎(明治8年(1875年)~昭和22年(1947年)詩人)の子。
子供時代を日本で過ごすが、のちアメリカに帰り、彫刻家となることとし、奨学金を得てパリでブランクーシに師事する。その後中国、日本で書、造園、陶芸を学び、以後彫刻にとどまらない庭園制作など幅広い分野で活躍する。平和記念公園を東西につなぐ平和大橋と西平和大橋は、彼のデザインによるものである。

てしま やざえもん
豊嶋 弥左衛門

(1899~1978)
能楽師
広島市上幟町(広島市中区)に生まれる。
豊嶋家はもと浅野藩のお抱え能楽師であった。明治38年(1905年)「鞍馬天狗」の子方で初舞台。大正2年(1913年)「猩々(しょうじょう)」の初シテを務める。同年京都金剛家に入門し、シテ方金剛流能楽師となる。昭和23年(1948年)家名の弥左衛門を襲名。昭和47年(1972年)芸術祭大賞 を受賞。昭和52年(1977年)人間国宝に認定され、京都市文化功労者にも選ばれた。

しまばら はんざん
島原 帆山

(1901~2001)
尺八奏者
佐伯郡五日市町(広島市佐伯区)に生まれる。中国吉林省の長春中学校卒。本名 重蔵。
大正8年(1919年)岡本葉山に入門。大正15年(1926年)準師範、皆伝を受ける。昭和14年(1939年)大師範。昭和16年(1941年)都山流の最高冠称竹琳軒の冠号を許される。広島を拠点として全国的に演奏活動を展開。原爆で焦土と化した広島を題材に作 曲した「平和広島」は流祖中尾都山により「平和の山河」に仕上げられ、平和への祈りをこめて全国で演奏された。昭和44年(1969年)には米国公演を行い、好評を博した。昭和57年(1982年)人間国宝に認定される。平成元年(1989年)広島市名誉市民となる。平成13年(2001年)8月6日原爆 慰霊碑前で「平和の山河」を献曲した。平成13年(2001年)12月15日死去。

ささき ひさこ
佐々木 久子

(1927~2008)
編集者・評論家・随筆家
広島市生まれ。
昭和20年(1945年)広島で被爆。昭和30年(1955年)雑誌「酒」を創刊し、地酒を発掘して全国行脚した。以来平成9年(1997年)に501号をもって休刊するまで42年間編集長を務める。創刊の翌年赤字で廃刊に追い込まれそうになった同誌を救ったのは友人の火野葦平である。報酬なしで原稿と扉を書いたばかりでなく、仲間の作家たちを紹介した。小説家で夫の坂口安吾をなくし、昭和31年(1956年)文壇バーを開いたばかりの坂口三千代に「クラクラ日記」の執筆を勧め、11年間、同誌に連載。これは後に単行本化され、テレビドラマ化もされた。昭和41年(1966年)広島出身者や縁のある芸能・文化人と「広島カープを優勝させる会」を結成、代表世話人となって奔走、昭和50年(1975年)のカープ初優勝への原動力となった。

なかざわ けいじ
中沢 啓治

(1939-2012)
漫画家
広島市中区舟入本町に生まれる。本名は中澤啓治。
国民学校(小学1年)の時に、広島で爆心地から1.3キロの地点で被爆。中学卒業後、看板屋で働きながら独学で漫画を学び出版社への投稿を続ける。22歳で上京し一峰大二に師事。昭和43年(1968年)「黒い雨にうたれて」でデビュー。昭和48年(1973年)から「週刊少年ジャンプ」で自伝的作品「はだしのゲン」の連載を開始。原爆と戦争の真実に本格的に取組んだ児童漫画として、アニメ化や外国語での翻訳版の出版など、国内外で圧倒的な支持を受ける。平成21年(2009年)白内障により視力が衰えたため漫画家を引退するが、その後も講演会活動を精力的に行い、原爆と戦争の恐ろしさを訴え続けた。作品には「クロがいた夏」「いつか見た青い空」「ユーカリの木の下で」などがある。

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スポーツ分野

わが国最初のオリンピック金メダリストとなった三段跳びの織田幹雄、オリンピックに4回出場し、世界の名セッターといわれたバレーボールの猫田勝敏などを紹介します。

おだ みきお
織田 幹雄

(1905~1998)
わが国最初の
オリンピック
金メダリスト
安芸郡海田町に生まれる。早稲田大学卒。
広島第一中学校(広島国泰寺高等学校)の出身で、昭和3年(1928年)第9回オリンピック・アムステルダム大会の三段跳びで優勝し、わが国で初めての金メダリストとなる。その後、指導者としても陸上競技の普及発展に努める。広島では、これを顕彰して毎年「織田幹雄記念国際陸上競技大会」が開催される。昭和63年(1988年)には文化功労者となる。

ねこだ かつとし
猫田 勝敏

(1944~1983)
バレーボール選手、監督
安佐郡安古市町(広島市安佐南区)に生まれる。崇徳高校卒。
古市小学校時代バレーボールを始め、崇徳高校で本格的セッターの指導をうける。高校卒業後日本専売公社広島地方局に入社し専売広島に入部する。東京、メキシコ、ミュンヘン、モントリオールのオリンピックに出場し、ミュンヘンオリンピックでは日本チーム金メダル獲得の立役者となった。昭和55年(1980年)現役を引退し、専売広島の監督となった。同年日本バレーボール協会から初の「バレーボール栄誉選手賞」を贈られる。世界の名セッターとしてバレーボール史に残る。平成13年(2001年)国際バレーボール連盟から「世界バレーボール20世紀の最優秀賞特別賞」を受賞した。南区皆実町二丁目の猫田記念体育館に胸像とギャラリーがあり、オリンピックメダルのレプリカ、全日本時代のユニホーム、写真などを見ることができる。

つだ つねみ
津田 恒美

(1960~1993)
プロ野球選手
山口県に生まれる。山口県立南陽工業高校卒。
高校2年夏の山口県予選で完全試合を達成。翌年の選抜高校野球大会に初出場しベスト8まで進み、剛速球投手として注目を集める。社会人野球の協和発酵を経て、昭和56年(1981年)ドラフト1位で広島東洋カープに入団。昭和57年(1982年)新人王を獲得。平成元年(1989年)には40セーブポイントで最優秀救援投手のタイトルを獲得。平成3年(1991年)病気引退。以後療養生活を続けていたが、平成5年(1993年)32歳で死亡。広島市民球場ライト側ブルペン入り口に「直球勝負 笑顔と闘志を忘れないために。」の言葉と生涯成績などが刻まれたメモリアルプレートがある。

あきのうみ せつお
安芸ノ海 節男

(1914-1979)
大相撲力士
(第37代横綱)
広島市南区宇品海岸に生まれる。本名は永田節男(ながた たかお)。
昭和6年(1931年)広島で開催された関西中学校相撲選手権を観戦に行き、元横綱常の花の目に留まりスカウトされて18歳で出羽海部屋へ入門。昭和7年(1932年)に永田の名で春場所初土俵を踏む。昭和8年(1933年)山本三朗中国新聞社長が名付け親となり安芸ノ海を名乗る。昭和13年(1938年)に新入幕。西前頭三枚目で臨んだ昭和14年(1939年)の春場所で横綱双葉山と対戦。当時69連勝中の双葉山を破る大金星をあげ一躍脚光を浴びた。昭和15年(1940年)関脇の夏場所で初優勝。昭和17年(1942年)横綱に昇進。昭和21年(1946年)に引退するまでの通算成績は142勝59敗、優勝1回。引退後は年寄藤島を襲名し、日本相撲協会理事を務めるなどした後、昭和30年(1955年)に廃業した。

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科学分野

江戸後期、日本初の木造人体骨格模型を作った星野良悦。明治期、様々な医学史料を研究し、日本の医学界に貢献した富士川游を紹介します。

ふじかわ ゆう
富士川 游

(1865~1940)
医(史)学者
沼田郡長楽寺(広島市安佐南区)に生まれる。幼名は充人(みつと)、明治5年(1872年)藤川を富士川に改姓。明治14年(1881年)広島県広島医学校に入学、この頃游に改名。明治20年(1887年)同校卒業。明治24年(1891年)頃から医学の史料を収集研究し、医学史に関する論文や著作を発表する傍ら、明治29年(1896年)芸備医学会を設立。その後も精力的に活動し、明治37年(1904年)に著した「日本医学史」で帝国学士院恩賜賞を受賞。大正3年(1914年)日本医師協会を設立。同年文学博士の学位も受ける。郷土への愛着心から総合雑誌「飽薇(ほうび)」を創刊した。昭和15年(1940年)死去。広島大学医学部構内と安佐南区長楽寺三丁目に顕彰碑がある。

ほしの りょうえつ
星野 良悦

(1754~1802)
町医者
宝暦4年(1754年)、安芸国堺町(広島市中区)に生まれる。父の後を継ぎ町医者(江戸時代、市中で開業する医者)となる。蘭方医(オランダから伝わった医術)をめざ し、治療には人体の構造を理解することが重要であると認識する。藩の許可を得て解剖した死体の骨を研究し、寛政4年(1792年)細工職人を指導し、血管が通る穴まで復元した精巧な、組立て式の骨格模型を製作した。後に、木骨を携え江戸に行き「解体新書」の訳者で知られる杉田玄白、大槻玄沢等からその精巧さを絶賛された。さらに1体の木骨を作製し、これを幕府医学館に献上、「身幹儀(しんかんぎ)」と名づけられた。藩医の後藤家に伝わった木骨は現在広島大学医学部医学資料館が所蔵。昭和46年(1971年)広島市指定重要有形文化財、平成16年(2004年)国の重要文化財に指定。国内最古の人骨模型として人体の骨格構造を知る貴重な資料で、江戸時代の医学発展に寄与した。

いのくち ひろお
井口 洋夫

(1927~)
化学者
東京大学名誉教授
広島市生まれ。1940年代後半から複数のベンゼン環を含む有機分子に着目し、分子間の電気伝導に関する先駆的な研究を進め、昭和25年(1950年)、有機半導体の概念を発見した。それまで絶縁体と思われていた有機化合物に電気を導くものがあることを発見し、これを電気電子材料として用いるという全く新しい発想のもとに、現在の分子エレクトロニクスに至る広大な分野を開拓・先導してきた。さらに、有機分子の科学と技術の分野において優れた人材と研究グループを育て、電子機能性有機物質の世界的研究拠点を築き、国際的な学術交流にも大きく貢献している。

ますもと はかる
増本 量

(1895~1987)
物理学者
広島県安芸郡矢賀村(現広島市東区)生まれ。東北帝国大学工学専門部を経て大正11年(1922年)同大学理学部物理学科を卒業。八木秀次、本多光太郎につ いて学ぶ。大正13年(1924年)金属コバルトの磁気的・熱的・電気的性質を含めた実験を行い、477度の温度で結晶変態があることをつきとめ、それまで混乱のあった金属コバルトの物性を明らかにし一躍有名となった。以後、数多くの新合金の発見開発により、現代の生活に欠かすことのできない多くの精密機器の性能向上およびその発展に貢献し、世界の科学技術の進歩に大きな足跡を残した。

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平和分野

原爆ドームを設計したヤン・レツル、被爆直後の広島に大量の医薬品を送らせたマルセル・ジュノーなどを紹介します。
人物をクリックすると、その人物名を検索項目にし、蔵書検索(書名・著者名・テーマ・人名)を行います。なお、同姓同名等により、別の人物に関する資料が表示される場合がありますが、ご了承ください(日本人は漢字で外国人はカナ読みで検索しています)。

ヤン・レツル
Jan Letzel

(1880~1925)
建築家
チェコのナホトに生まれる。プラハ美術専門学校建築科卒。1907年(明治40年)建築事務所に就職するために来日。明治42年(1909年)独立し建築設計事務所を設立。大正5年(1916年)に一時帰国するが大正7年(1918年)再来日。日本に滞在した約10年間に松島パークホテル、広島県物産陳列館、 宮島ホテルなど20余りの設計に従事した。広島県物産陳列館(後の産業奨励館)は大正4年(1915年)完成。現在は原爆ドームとして世界に平和を訴えている。原爆ドームは平成8年(1996年)ユネスコの世界遺産に登録された。

フロイド・シュモー
Floyd Schmoe

(1895~2001)
森林学者
原爆によって住む家を失った人達のため、「ヒロシマの家」計画の名の下に住宅建築資金の募金を始め、昭和23年(1948年)から昭和28年(1953年)にかけて地元の協力者とともに住宅15軒、公民館(シュモー会館)1棟を建築、広島市に寄贈した。昭和58年(1983年)広島市特別名誉市民の称号を受ける。アメリカのシアトル市には平成2年(1990年)シュモー氏の働きかけで建設された「シアトル・ピース・パーク」があり中央にサダコ像が設置されている。

エドマンド・ブランデン
Edmund Blunden

(1896~1974)
詩人・評論家
イギリスのロンドンに生まれる。第一次世界大戦に従軍。戦後オックスフォード大学に復学。大正13年(1924年)~昭和2年(1927年)東京帝国大学で 英文学教師を務める。昭和22年(1947年)イギリス政府の使節として再来日し昭和25年(1950年)まで滞在。日本文化再興のため、国内各地で講演を行った。昭和23年(1948年)冬、広島を訪れ、「HIROSHIMA―1949年8月6日によせて―」という詩を残している。広島市立中央図書館前(北側)にこの詩を刻んだ詩碑がある。

えのみや まきび
愛宮 真備

(1898~1990)
神父
ドイツのウェストファーレンに生まれる。本名フーゴー・ラサール(Hugo Lassale)。第一次世界大戦で戦傷を負い、戦後、大正8年(1919年)イエズス会に入会。オランダの聖イグナチオ大学、イギリスのストーハーニスト大学、ヒースロッブ大学院等で哲学や神学を学ぶ。昭和4年(1929年)来日。上智大学教授を務め、昭和15年(1940年)から広島カトリック教会に転じた。昭和20年(1945年)8月6日被爆。世界平和記念聖堂の建設に尽力する。昭和23年(1948年)日本に帰化。昭和43年(1968年)広島市名誉市民となる。平成2年(1990年)ドイツで死去した。

アイラ・モリス
Ira Morris

(1903~1972)
作家
フランス在住のアメリカ人作家。ハーバード大学卒。昭和30年(1955年)および昭和32年(1957年)広島を訪れ、昭和32年(1957年)被爆者の精神的安らぎのために私費を投じて南区宇品西二丁目に「広島憩いの家」を創設。昭和42年(1967年)広島市特別名誉市民の称号を受けた。

エディタ・モリス
Edita Morris

(1903~1988)
作家
アイラ・モリスの妻
スウェーデンの軍人の家庭に生まれる。ロンドンで勉学中アイラ・モリスと知り合い、結婚。夫とともに「広島憩いの家」創設に尽力する。昭和34年(1959年)広島の被爆者に取材した小説『ヒロシマの花』をロンドン、パリ、ニューヨークで同時出版。ベストセラーになり30カ国で翻訳され300万部を売り上げ、シュバイツァー文学賞を受賞した。昭和42年(1967年)広島市特別名誉市民の称号を受けた。

マルセル・ジュノー
Marcel Junod

(1904~1961)
医師
スイスのラ・ショー・ド・フォンに生まれる。昭和20年(1945年)8月9日赤十字国際委員会の代表として来日。原爆被災の惨状を知り、GHQ(連合国軍 最高司令官総司令部)に交渉し、15トンの医薬品を送らせた。自らも9月8日広島に入り、惨禍の実情を調査し、治療にあたった。平和記念公園南側に記念碑、広島赤十字・原爆病院にレリーフ、袋町小学校西側にジュノー広場がある。

メアリ・マクミラン
Mary McMillan

(1912~1991)
宗教家
アメリカのフロリダ州ペンサコラに生まれる。テネシー州スカーレット大学大学院で聖書、文学を学び宣教師に任命される。テネシー州バンダビルド大学大学院で社会福祉学を学ぶ。昭和22年(1947年)広島女学院専門部教授に就任(翌年広島女学院大学教授)。牛田教会設立を支援する。広島日米協会役員やワールド・フレンドシップ・センター理事などを務め、広島キリスト教社会館など多くの事業に加わった。また広島県、市の社会事業関係課でケーススタディーを手伝い、物心両面の支援を惜しまなかった。昭和55年(1980年)広島市特別名誉市民の称号を受けた。

ジョン・ハーシー
John Hersey

(1914~1993)
ジャーナリスト・作家
アメリカ人。中国で宣教師をしていた父の関係で天津に生まれる。エール大学卒。「タイム」の記者として第二次世界大戦に従軍。小説『アダノの鐘』でピュリッツァー賞を受賞した。昭和21年(1946年)5月広島を訪れ、流川教会の谷本清牧師ら6人の被爆者から聞き取りを行い、アメリカの週刊誌「ニューヨーカー」に『ヒロシマ』を発表。即日30万部を売り尽くし、新聞にも連載され、大きな反響を呼んだ。昭和60年(1985年)にも来広し、広島のその後を「ニューヨーカー」に寄稿した。

ノーマン・カズンズ
Norman Cousins

(1915~1990)
ジャーナリスト
アメリカのニュージャージー州に生まれる。コロンビア大学卒。ニューヨークの文芸雑誌「土曜文学評論」の編集長として昭和24年(1949年)広島を訪れ、ルポ「4年後のヒロシマ」を発表。これを契機に、流川教会の谷本清牧師らとともに原爆により家族を失った子どもたちに対する「精神養子運動」を行い、400名を超える子どもたちに物心両面で支援した。さらに昭和30年(1955年)谷本牧師や原田東岷医師が取り組んでいた原爆後遺症のケロイドの治療に関わり、25名の女性の渡米治療に尽力した。昭和39年(1964年)広島市特別名誉市民の称号を受けた。平和記念公園南側に記念碑がある。

バーバラ・レイノルズ
Barbara Reynolds

(1915~1990)
平和活動家
アメリカのオハイオ州ミルウォーキーに生まれる。コロンビア大学中退。昭和26年(1951年)ABCC(原爆傷害調査委員会現・放射線影響研究所)研究員の夫とともに来日。昭和37年(1962年)広島の被爆者とともに欧米の国々を訪問する「平和巡礼計画」を実施。原水爆使用禁止や核実験停止を訴えた。昭和39年(1964年)にも「ヒロシマ・ナガサキ世界平和研究使節団」を実施。昭和40年(1965年)「ワールド・フレンドシップ・センター」を発足させた。昭和44年(1969年)離日。オハイオ州ウィルミントン大学「ピース・リソース・センター」に「ヒロシマ・ナガサキ原爆祈念文庫」を設立。 昭和50年(1975年)広島市特別名誉市民の称号を受けた。

ヨハネ・パウロ2世
Ioannes PaulusⅡ

(1920~2005)
ローマ法王
ポーランドのヴァドヴィツェに生まれる。昭和17年(1942年)から地下組織の神学校で学ぶ。昭和21年(1946年)司祭となりローマへ留学。アンジェリクム神学大学で学び、神学博士号を授与される。昭和53年(1978年)第264代の教皇に選出される。100カ国以上を訪問し、人間の尊厳と世界の平和を訴え、他派のキリスト教会や異宗教との対話にも力を入れていた。昭和56年(1981年)2月来日し東京、広島、長崎を訪問。2月25日広島から全世界 に向けて平和アピールを発した。平和記念資料館の1階ロビーにローマ法王平和アピール碑がある。