『われらの詩』における詩作品-その詩学(ポエティック)と政治学(ポリティクス) |
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15~54p |
『われらの詩』をどう読むか |
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サークル詩と原爆表現の生成-林幸子「ヒロシマの空」 |
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「原爆詩人」と「朝鮮戦争詩人」の狭間-峠三吉「一九五〇年の八月六日」 |
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『われらの詩』とジェンダー-引地きみ「だいこん」、杉生直子「古い家」 |
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「復興」への懐疑から「難民の思想」へ-望月久「とまどい-弔慰金によせて」 |
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『われらの詩』から『われらのうた』へ-被爆地広島のサークル詩誌の軌跡 |
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55~78p |
『われらの詩』と『われらのうた』 |
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『われらの詩』前史と創刊 |
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『われらの詩』と朝鮮戦争 |
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「書きまくる運動」とうたごえ運動-『われらのうた』前期 |
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詩と生活記録-『われらのうた』後記 |
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「原爆詩人」峠三吉の顕彰から検証へ |
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島陽二「『原爆詩集』試論」の意義 |
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動物たちの原爆文学-『原爆詩集』試論 |
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79~100p |
「にんげんをかえせ」とは |
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死者の位置から発話する |
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人間性の恢復による暴力 |
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人間性の再定義に向けて |
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「決して安らかになど往生しきれぬまなざし」 |
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四國五郎と辻詩-シベリア収容所の民主運動と被爆地広島のサークル運動 |
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101~139p |
四國五郎再評価と課題 |
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四國五郎とシベリア収容所の民主運動 |
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四國五郎と被爆地広島のサークル運動 |
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辻詩の可能性 |
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『ヂンダレ』と『琉大文学』に見る広島・長崎・ビキニ-東アジア冷戦の狭間から |
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141~164p |
東アジア冷戦の狭間 |
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『ヂンダレ』に見る核・原爆(一) |
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『ヂンダレ』に見る核・原爆(二) |
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『琉大文学』に見る核・原爆 |
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朝鮮戦争と民衆の自画像-山代巴「或るとむらい」論 |
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167~186p |
朝鮮戦争の衝撃 |
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戦後農地改革から朝鮮戦争の特需景気へ |
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「たたり」への怖れ |
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未決定性の修辞 |
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井伏鱒二「かきつばた」と大田洋子「ほたる」に触れて |
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「声」を拾い集め、編み直す-被爆者支援運動と手記集『原爆に生きて』 |
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187~209p |
被爆者支援と体験集・手記集 |
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『原爆に生きて』刊行まで |
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『原爆に生きて』の編纂方針(一)-被爆者の戦後を可視化する |
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『原爆に生きて』の編纂方針(二)-「敢えて弱いままの手記を集録」する |
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『原爆に生きて』の表現性(一)-「原爆乙女」との距離 |
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『原爆に生きて』の表現性(二)-当事者とは誰のことか |
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被爆者の組織化と多様な「声」 |
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カタストロフィと日常の交差-田中清子の手記(『原爆の子』)を読む |
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211~223p |
カタストロフィを書くこと、あるいは読むこと |
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当事者になるとは |
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復興する街を書き直す-大田洋子『夕凪の街と人と』論 |
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225~262p |
東日本大震災後の村上春樹のスピーチ |
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五〇年代前半の大田洋子とその周辺(一)-『広島文学』と第一次原爆文学論争 |
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五〇年代前半の大田洋子とその周辺(二)-未来志向の言説 |
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「国際平和都市」の歴史的地層 |
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不和・不合意の表象としての「夕凪の街」 |
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