はじめに |
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序章-今こそリアルでクールな「上下関係」を |
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第一章 人間関係を「分けて考える」キーワード |
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第二章 そもそも学校とはどんな制度か |
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第三章 クールティーチャー宣言 |
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第四章 「心の教育」よりも、まず「ルール」が必要 |
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第五章 「規律か自由か」の二者択一ではなく、「間をとる」努力を! |
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第六章 「友だち先生」の実態 |
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第七章 しつけは学校の責任か? |
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おわりに-ピュアネスのためのリアリズムを |
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「上下関係」は古い考えか? |
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「ルール関係」と「フィーリング共有関係」 |
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「事柄志向」と「人柄志向」 |
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何ごとも分けて考える |
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社会学の「人格性」と「事実性」 |
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学校における「共通基盤」と「先生のプロデュース領域」 |
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学校で一番大切なのは「欲望の統御の作法」を身につけること |
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「管理」も「自由」も極端になってはいけない-「間をいく教育論」 |
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学校はどんな目的で作られたのか? |
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戦後は「公民」としての教育 |
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学校は「すばらしい人間を育てる場」ではない |
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学校教育の否定は簡単。でもそこからは何も生まれない |
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「子育ては仕事」は、近代になってからの概念 |
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「座学」の大切さ |
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学校は「ルーティンの場」である |
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恒常性感覚の育成の場としての学校 |
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先生は重労働 |
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どうしても小集団に分裂するクラスを統率する難しさ |
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「みんな仲良く」は実現不可能 |
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「体験重視の学習」は、先生のプロデュース能力に依存する |
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熱心な先生ほど、「人柄志向」が強い? |
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クールティーチャーのすすめ |
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リアルでクールで、でもハートは熱い |
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「心の教育」ではなく、「行いの教育」を! |
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求めるのは徳目ではなく、「ルール感覚」 |
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なぜ人を殺してはいけないのか |
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イジメは「こころの教育=人柄志向」では解決できない |
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「ルール感覚」と「規範意識」の違い |
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自分はいま「事柄志向」か「人柄志向」か、絶えざる自己点検を |
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「主体性の尊重」と「規制や制限」とのバランスの難しさ |
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観念的な空疎な言葉は、子どもには説得力がない |
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規律と自由の「間をとる」 |
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教育と力の行使 |
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大事なのは「モデルの提示」 |
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自由だけが常態化するとモラルは下がる |
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子どもの時期の延長と早熟化傾向 |
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みんな百点?! |
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中一ギャップ |
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リーダーを育てない小学校 |
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社会の変化によって子どものあり方も変容する |
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「型」を伝えることの大切さ |
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「個性」より「ルール」を |
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女子生徒の最低限の安全すら保障できなかった学校の例 |
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「教室の空気にあわせてしまう」-イジメに加担した先生 |
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クラス全体の流れから外れると、先生だって攻撃の対象になる |
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「生徒を傷つけたくない」と、起きたことをなかったことにする先生 |
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「家庭の事情が複雑だから」と叱らない先生 |
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「事柄志向ゼロ」のサンプルがモンスターペアレント |
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先生は生徒の記憶に残らなくていい |
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問題解決よりも思い出作りに走る「友だち先生」 |
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言っていることにブレのない先生は信頼される |
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「他人に迷惑をかけなければ何をしても自由」は正しいのか? |
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若者も秩序を望んでいる |
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学校教育に「ビジネスマインド」を持ち込むのもほどほどに |
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「生徒が傷つく」ことにあまりに過敏な学校 |
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極端に振れすぎないこと |
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しつけは学校の責任? |
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子育ては、子どもを通した「親の生き直し」? |
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人間の発達の構造をとらえるキーワード-「美・善・真」 |
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なぜ「勉強しなさい」と言っても言うことをきかないのか |
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逸脱への寛容さ |
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「お前の人生なんだから、自分で決めろ」は無責任 |
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子どもが子どもを育てる時代 |
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「らしさ」と「として」 |
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すべてを自己責任で負えないうちは「修行の身」 |
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子育てには「分節化」が必要 |
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「働かなければ、生き続けることはできない」を教える |
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社会を批判するだけでは… |
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子どもたちに教えるべき「社会のリアル」 |
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