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浅野氏入城400年記念事業 平成30年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」
(後期)第5回「書物と人と文芸と-江戸時代、広島の文化を支えた人々-」を開催しました

カテゴリー:中央図書館
記事分類:事業報告公開日:2019年5月11日

浅野氏入城400年記念事業 平成30年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」後期 第5回「書物と人と文芸と-江戸時代、広島の文化を支えた人々-」を平成31年2月16日(土)に開催しました。
その概要をご紹介します。

第5回「書物と人と文芸と-江戸時代、広島の文化を支えた人々-」  
講師:県立広島大学人間文化学部教授 西本 寮子さん

歴史講座後期第5回_1歴史講座後期第5回_2

概要

今回は、書物に残された所蔵者の印や署名、落書きなどの調査から、広島藩の人々の生活や文化、また、広島藩の文教政策と庶民の学びとの関わりなどについて、具体的な資料を紹介しながら、お話をされました。

主に資料として紹介されたのは、呉・仁方(にがた)で庄屋をつとめた手島家の旧蔵書(入船山記念館所蔵)、呉浦塔之岡・青盛氏の文芸資料(入船山記念館所蔵)、賀茂郡上保田(かみぼうだ)で代々庄屋や割庄屋をつとめた平賀家の蔵書(賀茂郡黒瀬・平賀家蔵書、広島県立文書館寄託)、京橋町・保田(やすだ)家文書(広島県立文書館所蔵)などです。

  1. 広島藩の教育と人材育成
     広島藩における文教政策は、好学であった5代藩主吉長の治世を中心として推進された。学問や知識を教養として身に着けるというよりは、社会的変動に対応し、現実に対処できる人材の育成を目指していた。
    (1) 家臣教育
    ・4代藩主綱長(延宝元年(1673年)~宝永5年(1708年))
     味木立軒(あまぎ りっけん、儒者)、寺田臨川(てらだ りんせん、儒者)などを登用し、家塾(個人の経営する塾)の開設と武士や庶民の修学(学問を学ぶこと)を奨励した。
    ・5代藩主吉長(宝永5年(1708年)~宝暦2年(1752年))
     本格的な武士教育を目指して、享保10年(1725年)に講学所を開設。教授 寺田臨川のもと、儒者による子弟教育を開始する。なお、講学所は享保19年(1734年)に講学館と改称するが、寛保3年(1743年)に経費削減を理由に閉鎖する。
    ・7代藩主重晟(宝暦13年(1763年)~寛政11年(1799年))
     天明2年(1782年)に藩の学問所を創設。御用掛と6人の儒者の協議により運営していた。
    学ぶ意志のある者は、身分に関わらず講義への出席を認めていたが、武士以外の入学はなかなか許可されなかった。天明5年(1785年)に、学問所の教育を朱子学(しゅしがく)に統一した。
    (2) 家老による教育
    宝暦年間(1751年~1763年)以後、独自の教育施設を設ける家老が出現した。
    (3) 庶民の教育機関-塾教育の広がり
    ・18世紀以降、広島城下、三原、尾道、竹原、三次などで富裕層を中心に、学問に関心を持ち、家塾や私塾で学ぶ町人が急増した。
    ・農村部では割庄屋、村役人を含む農民富裕層、豪農層に学習熱が高まる。職業倫理を前提とした知識の習得や、家業の維持と経済的変動に対応できる能力と実行力の修得を目指した教育が行われた。
    ・庶民の学習意欲の高まりを背景に、寺子屋(日常生活で必要な読み・書き・計算などの初歩知識を修得する場)・塾(寺子屋よりも、より程度の高い教育、専門的な知識を学ぶ場)が増加した。
    (参考文献:『広島藩』(土井作治/著、吉川弘文館、2015年))
  2. 庄屋の蔵書・資料群からみる人々の営み
    ・藩の人材育成方針、文教政策に合致した書物の所蔵が多くみられた。複数冊所蔵されているものも少なくない。
    ・複数冊所蔵する書物の中には、江戸時代後期に広島藩が刊行した、領内の善行者の伝記集である「芸備孝義伝」もあった。この「芸備孝義伝」は、庄屋等を通じて領民に読み聞かせるために配布された書物である。
    ・蔵書印や貸本屋印があり、貸本として利用されていたことを示す書き込みのある書物があった。
    ・見返しなどに、落書きや又貸しを禁じる文言、紛失注意を促す文言などがあることから、蔵書を広く貸出ししていたことがわかる。
    ・藩の学問所でテキストとして使用された「集注(しっちゅう)」(集註とも書く。ある書物についての注釈を集めて、一つにまとめたもの)が複数冊みられる。
     →以上のことから、広島藩の文教政策が、庄屋を通して、庶民層に浸透していったといえる。
  3. 貸本屋について
     印刷技術の発達に伴い、江戸時代は多くの書物が大量に生みだされた。江戸時代の庶民の読書は、貸本文化と密接に結びついており、天保期には江戸だけで800の貸本屋があったといわれている。
     調査した資料の中に、広島城下で書肆(しょし・本屋)を営む世並屋伊兵衛(よなみや いへえ)の、貸本に関する貼紙広告「書物類古本売買貸本所/廣嶋書林中嶋本町南側/世並屋伊兵衛」が見つかった。
     これにより、世並屋伊兵衛が、新古書の売買のほかに貸本業を兼業していたことが分かった。
     また、世並屋伊兵衛以外にも「黒瀬/貸本所/檜垣」「備後神邊/貸本所/蛭子屋」などの印が残された書物があり、広島県内の各所に貸本屋があったことが判明している。
     貸本の読者は、当然識字能力を身につけているはずであるので、このことは、多くの領民が本を借りて読むことができた(識字率が高い)ことを示している。
  4. 学びへの情熱
     京橋町・保田家の蔵書の中に、京都に住む和歌の宗匠 澄月が、6代目保田忠昌に宛てた書翰が見つかった。広島の町人が、京都の師匠に和歌の指導を頼むほど、領民の好学意識が高まっていることが感じられる。
     また、調査資料の中には、厳島についての記載や作品がみられ、江戸時代の広島の人々にとっての厳島の存在感も感じることができる。

  5. 災害と教育
     『広島藩』(土井作治/著、吉川弘文館、2015年)によると、18世紀以降の広島藩内で記録されている災害・飢饉は96回に及び、そのうち田畑の損耗・人畜に大きな被害をもたらした自然的災害は、風水害50回、旱害・冷害・虫付37回、地震・疾病(火事を除く)8回などとなっている。ひとたび大災害に見舞われると、収穫は激減、藩財政も窮乏し、蓄えの乏しい農民や都市借屋層は飢餓状態に追いやられた。
     文教政策を推進した5代藩主吉長は、その治世に起こった享保17年(1732年)の大飢饉後、災害や飢饉に備えて、本格的な対策を考えるようになっていた。度重なる災害や不景気などへの対策のひとつとして、藩士だけでなく領民みんなで学び、備えていくという、広島藩の文教政策と人材育成の様子を見ることができる。

おわりに
 このように、書物に刻み込まれている印や所蔵者の署名、これまで落書きとしてほとんど顧みられることのなかった情報が、実は生活に密着した商品流通の実態や、書物を媒介とした地域のネットワークなど、江戸時代の広島の人々の姿を如実に反映している資料であることがわかる。
 広島は、原爆で多くの資料が失われたが、少ない資料を丁寧にみていくことで、江戸時代の広島の人々の豊かな生活を感じることができる、と締めくくられた。

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