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浅野氏入城400年記念事業 平成30年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」
(後期)第3回「浅野家・広島藩の能楽」を開催しました

カテゴリー:中央図書館
記事分類:お知らせ更新日:2019年4月24日

浅野氏入城400年記念事業 平成30年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」後期 第3回「浅野家・広島藩の能楽」を平成31年1月19日(土)に開催しました。
その概要をご紹介します。

第3回「浅野家・広島藩の能楽」  
講師:神戸女子大学文学部 教授 樹下 文隆さん

歴史講座後期第3回_1歴史講座後期第3回_2

概要

江戸時代、能楽は幕府の式楽(しきがく・儀式に用いられる芸能)となり、広島藩も能楽を手厚く保護していました。今回は浅野家・広島藩の能楽について、古文書資料を読み解きながら、お話をされました。

能とは舞を伴う歌劇で、通常猿楽能(さるがくのう)を指す。猿楽能は、南北朝時代から室町時代初期にかけて発達し、江戸時代中期にほぼ様式が完成した。その特徴は、① 能舞台という能専用の舞台で演じること、② シテ(仕手、為手)と呼ばれる主演者を中心に演じること、③ 仮面を使用し、舞を中心に演じること、④ 能舞台以外で素人が能の詞章を謡うための台本、謡本が普及し、謡曲(ようきょく)と呼ばれていること、⑤ 大鼓と小鼓と笛、またはそれに太鼓を加えた四囃子による伴奏がなされるものであること、などである。
秀吉は熱狂的な能の愛好者で、能役者を積極的に保護したが、徳川家康もまた、能を保護した。
2代将軍秀忠も能を愛し、喜多(きた)流の樹立を許し、特に偏愛した。第3代将軍家光の時代には、大和猿楽(観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金春(こんぱる)・金剛(こんごう))の四座に、新たに認められた喜多(きた)流と合わせた四座一流(よざいちりゅう)が徳川幕府の式学と定められた。

  1. 浅野家と能楽
    (1) 浅野長政(ながまさ・浅野長晟の父。豊臣政権の五奉行筆頭)
      天正14年(1586年)、秀吉の妹朝日姫と徳川家康の婚姻祝賀で長政が舞った。長政は婚姻の使者になったことで、徳川家康と懇意になった。(『朝野旧聞裒藁』東照宮御事績第二百二十八)
    (2) 浅野光晟(みつあきら。長晟の次男で、浅野家第2代広島藩主)
      ・浅野長晟から光晟への意見覚書に、「一、折々つゝみけいこ可然事」とあり、元服した光晟に対して「時々、鼓の稽古をしなさい」と、能に励むように伝えている。(『大日本古文書 家わけ 第2』「242 浅野長晟意見覚書」東京大学史料編纂所/編 東京大学出版会 1968年)
      ・貞享2年(1685年)光晟68歳の時に、第5代将軍綱吉に頼まれ、能を舞った。この年齢でも舞うということは、光晟の舞が上手だったからだといえる。(「徳川実紀」貞享23年10月9日条、『大日本古文書 家わけ 第2』「233 浅野光晟書状」)
    (3) 浅野綱長(つななが・浅野家第4代広島藩主)・吉長(よしなが・浅野家第5代広島藩主)
      綱長は元禄9年(1696年)8月6日に将軍の命で能《小鍛冶》のシテを務め、その前年に元服した嫡男の吉長は元禄10年(1697年)8月10日に将軍の前で能《田村》のシテを務めている。それぞれ将軍の命で同僚の大名衆とともに能のシテを務めている。(『徳川実紀』)
  2. 広島藩の能楽
     広島藩では江戸、京都、広島とそれぞれで能役者を扶持人(家臣・お抱え役者)として抱えていたほか、江戸では幕府御用の四座一流役者をその都度雇っていた。京都のお抱え役者は藩主在京時の御用を務めるほか、広島で演能がある時には広島に来て演じていた。
     藩主や藩士が習う流派は固定しているのが普通で、広島藩では光晟以降、みな喜多流を習っていたようだ。綱晟(浅野家第4代広島藩主)のときには、広島中通組 中町北側(現・袋町小学校北側の通りか?)に、役者多門が建てられ、能役者の住居にあてられた。
     事蹟のわかる能役者としては、喜多権左衛門家(シテ方、幕府御抱え喜多座のツレ大夫。広島藩能大夫)、鈴木半七家(金春又右衛門派太鼓方。広島藩能役者)がいる。
     それぞれ、『喜多流の成立と展開』(表 章/著 平凡社 1994年)、「金春又右衛門流太鼓方鈴木家について」(三浦 裕子/著(『武蔵野大学能楽資料センター紀要』20号、武蔵野大学能楽資料センター、2008年)に詳しい。
     一方、広島城下や近在の町村では、富裕な商家や庄屋に、上方在住の町役者を師匠として謡や囃子を稽古する者もいて、その多くは観世流を習っていた。城下や三原、尾道などの町では、神社の祭礼などで定期的に勧進能(かんじんのう)が興行され、町人や近在の村人も能見物を楽しんでいた。
     第2代将軍秀忠は、将軍職を家光に譲ってからも、寛永9年(1632年)まで大御所として睨みをきかせていた。そのころが、大名たちにとって、いつ取りつぶしにあうのか戦々恐々としていた時期であり、広島藩の能楽が喜多流であったのは、幕府の意におもねった結果と考えられる。
     江戸時代における能は単なる芸能ではなく、将軍家や他の大名家との付き合いの中で必要なものであったと、締めくくられた。


【参考文献】

【関連本】