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浅野氏入城400年記念事業 平成30年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」
(後期)第2回「領内を巡り歩く広島藩主」を開催しました

カテゴリー:中央図書館
記事分類:事業報告公開日:2019年3月13日

浅野氏入城400年記念事業 平成30年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」後期 第2回「領内を巡り歩く広島藩主」を平成30年12月15日(土)に開催しました。
その概要をご紹介します。

第2回「領内を巡り歩く広島藩主」  
講師:福山市歴史資料室 片岡 智さん

歴史講座後期第2回_1歴史講座後期第2回_2

概要

江戸時代、各藩の藩主は参勤交代で国元に戻った時に、領内の視察・鷹狩り・墓参りなどを行っていたようです。今回は、広島藩主やその兄弟、隠居した元藩主などによる領内視察の理由や政治的意味、また地元領民が行った接待の様子などについて、古文書資料を読み解きながら、お話をされました。
取り上げた資料は主に、第7代藩主重晟(しげあきら・隠居後は少将)、第8代藩主斉賢(なりかた)、重晟の弟である長包(ながかね・友之助)に関するものです。

  1. 鷹野・国廻りについて

    (1) 鷹野(たかの・鷹狩り)
      江戸時代には、鷹及び鷹を使って獲った獲物などを、贈答儀礼として将軍が藩主に下賜したり、諸大名が将軍へ献上することがよく行われていた。また、藩主やその近親者と家臣との間でも饗宴(もてなし)儀礼のために鷹野を行っていた。
      鷹野(鷹狩り)とは、飼いならして訓練したハヤブサやオオワシなどを使って、鳥や小動物などを捕まえること(狩猟)で、もともとは軍事訓練として行われていた。獲物としては、ウサギのような小動物から、鯉などの魚もあったが、雁(かり)や鴨(かも)などの水鳥が多く、鶴が最高級とされていた。江戸時代を通して行われたが、5代将軍綱吉の時に出された「生類憐みの令」により一時期中断している。
      資料によると、重晟や斉賢は鷹野(鷹狩り)のために、廿日市や西条、本郷などに行き、友之助は江波、新庄、五日市などに行ったようで、藩主などが鷹野(鷹狩り)を行う範囲としては、西は玖波から東は本郷あたりまでだったと考えられる。

    (2) 国廻り(巡見)
      国廻り(巡見)とは、新たに領地を受け継いだ藩主が、領内を視察することをいい、遊覧や鷹野とセットで行う場合もある。近親者や隠居した藩主が領内をめぐる場合は、遊覧が主となっている。
      国廻りの範囲として、斉賢の場合を見ると、奥郡(吉田、庄原、西城など)、倉橋島、佐伯郡、山県郡など郡単位で巡見し、藩内を隅々まで廻っているわけではないようである。
      少将(重晟隠居後)は名所を巡り、友之助は浦方や島しょ部などを巡っていることが資料からわかる。

  2. 藩主に対する応接や、藩主の様子について
    藩主や随行の家臣は、領民に迷惑を掛けないことをモットーに領内を巡った。いくつかエピソードを資料から紹介した。

    ・重晟が隠居後に城下近くの鷹野で、めまいを起こして気分が悪くなり、それを知った斎賢が、馬で城下を走り抜け城下町民を驚かせてしまったという事件があった。
    (「村上家乗」文化10年閏11月11日条)
    ・友之助が山へ狩猟に行ったら、流れ弾が、歩く人のふところに入った。体にあたらず安心した。
     ※武士は領民を守るべきものなので、領民に銃を向けてはならないという暗黙の了解があった
    (「村上家乗」寛政13年12月18日条)
    ・友之助が瀬戸田町に来られた時には、道々掃除をし、「敷き砂」「盛り砂」「水桶」で出迎えること。
    (『瀬戸田町史』資料編より「延享2年 福田村差出帳」)
    ・宿舎では、藩主は静かに趣味に浸っていたようで、重晟は、吉田にて、画工に松の絵を描かせた。
    (文政2年「吉田村国郡志御用ニ付下調書出し帳」)
    ・竹原では謡・囲碁など楽しんでいた(個人蔵文書)。
    ・茶屋(宿舎)亭主の名誉でもあって、江波では、いつも(藩主を泊めていた)お礼として、家名と唐筆の贈り物があった。(「村上家乗」寛政7年1月5日条)
    ・竹原では、藩主の来訪を「一富士・二鷹・三茄子」の夢を見るほどの吉事と受け止めた(個人蔵文書)。
  3. 領内探訪における政治的意味が窺えるもの
    鷹野や遊覧であっても政治的な目的や意図があった。ここでもいくつかエピソードを取り上げた。

    ・領内の視察の一環で、斉賢公は、争いがある周防の国境を秘かに巡視している。
    (「村上家乗」寛政10年3月24日条)
    ・善い行いをした人物を表彰し、領民の模範としようという幕府の取組みに沿い、広島藩における領民の教化策が窺えるものとして、本郷村百姓藤蔵と姉ふさが、父母に対して孝行したため、宿舎で褒銭を与えられた。
    (『三原市史 資料編1』より「文政2年 本郷村国郡志御編集下しらへ書出帳」)
    ・友之助の遊覧に際して、滝や展望の良い場所、寺社の宝物類などの名所・旧跡を調査している。
    (享保17年~天明元年「格別覚書帳」呉市豊町支所所蔵)のちに編さんされた地誌(芸藩通志)につながる調査ともいえる。
    ・重晟と寿之助(長懋(ながとし)・斉賢の弟)が、海田のとんどを領民とともに見物して大いに盛り上げ、領民との一体感を醸し出す。
    (「村上家乗」享和4年1月15日条)
    ・藩主は自然保護・領地管理者として、水田減少に伴う鳥の減少について賀茂郡全域で鷹野の実態調査をしている。
    (「村上家乗」寛政7年9月26日条)

以上のように、領内巡見・鷹野は単なる物見遊山ではなく、領民に迷惑・負担を掛けず、藩主の威光を高め、政治的な意図をもった視察でもあった。

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