浅野氏入城400年記念事業平成29年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」
(後期)第5回「宮島と広島城下の人々」を開催しました

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中央図書館
記事分類
事業報告
公開日
2018年4月19日

浅野氏入城400年記念事業平成29年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」(後期)第5回「宮島と広島城下の人々」が平成30年2月17日に開催されました。
その概要を簡単にご紹介したいと思います。

後期第5回「宮島と広島城下の人々」  
講師:県立広島大学宮島学センター助教 大知 徳子さん

歴史講座後期第5回_1歴史講座後期第5回_2

概要

今回は、広島藩における宮島の経済的位置付けや観光産業等について、城下町広島との関わりを中心に話をされました。

  1. 宮島の「暮方(くらしかた)」と町の支配機構
    江戸時代の宮島は、「日本三景」「厳島八景」といった美的用語も定着し、物見遊山の客を集めていた。寺社などの名所や旧跡、嚴島神社の祭礼や宝物等についてまとめた『厳島道芝記』や『芸州厳島図会』、『続膝栗毛二編上下宮島参詣』などの出版の影響もあり、多くの人々が宮島を訪れるようになっていた。またそれに伴い、観光地として宿屋や舟方、土産物屋などの観光産業も栄えていた。
    また、宮島は広島城下町の燃料源である薪の供出地としても知られ、19世紀後半には200人余りの樵者(山子)がおり、城下及び近郊へ薪を自由に出荷していた。
    宮島の支配機構として、毛利氏時代には、代官として役人が塔ノ岡に屋敷を構えた。浅野氏時代には、宮島奉行所が塔ノ岡に設置され、藩から任命された宮島奉行が行政や司法を取り仕切っていた。
  2. 広島城下町の外港  
    ヨーロッパで発行された地図「ティセラ日本図」(1595年、宮島学センター蔵)に港湾都市「堺」などと共に「厳島」が記されていることから、「厳島」が流通経済の拠点として意識されていたことがわかる。広島城下の商業中心地は積み荷を降ろす着岸地点が狭いことから、宮島問屋を介して宮島で米を小型船に積み替えるなど、宮島が広島城下町の外港として大きな役割を担っていたと考えられており、平瀬徹斎編『日本山海名産図絵』(寛政9年(1797))の「安藝宮嶋濱市」には、宮島の玄関口であった有浦における米俵の売買の様子も描かれている。
    また、要害山のふもと(中小浦)には、交易・商業活動の管理をする施設として、「濱之役所」と呼ばれる番所も設けられていた。
  3. 六月十七夜の舟管絃(管絃祭) 御供船 
    舟管絃は旧暦6月17日に行われるが、その前日に城下を流れるいくつもの川から宮島へ渡航する御供船がある。御供船は、正徳元年(1711)頃、城下町紙屋町の釣燈屋三代目市兵衛が、嚴島神社の棚守職 野坂氏の依頼により、管絃祭のための雨具を寄進し、手船で管絃祭の供をしたことがはじまりといわれる(『知新集』(文政2年(1819))。その最盛期には約100艘の船が、それぞれ幕や幟、提灯など趣向を凝らした装飾をして水上を埋め尽くし、それらを一目見ようと大勢の観光客が訪れた宮島は、大いに賑わったという。
  4. 宮島の富くじ・芝居の興行
    寛永2年(1625)までは、城下町材木町にあった遊郭も、藩命により厳島に移転となった。元禄期以降、上方を中心とした遊興的な町人文化は、西国の地方都市にも押し寄せたが、広島城下では芝居・相撲・見世物興業が許可されなかったため、人々は宮島や近郊へ出かけ、これらを楽しんだ。
    ●富くじ
    宮島の特産品である「大束(薪の束)」の入札形式をとり、江戸時代中期から興行され、島内に富くじの「大束支配所(抽選会場)」があった。
    ●歌舞伎
    「年中の三市(いち)(春市、夏市、秋市)」には芝居や見世物が興行され、城下はもちろんのこと、西国(瀬戸内沿岸)の人々も集めた。特に夏市(6月)の芝居には、上方から千両役者と呼ばれた大名題が来演し、格別な賑わいだった。

  

このように、江戸時代の宮島は、広島城下町の外港として薪や米の取引も多く、流通経済の拠点としての役割も大きかった。また、芝居小屋や遊郭ができ、御供船をはじめ、富くじ、歌舞伎などの興行が行われるようになり、広島藩における大きな観光拠点となっていた、と締めくくられた。

参考文献
関連本