せんだ さだあき
千田
貞暁
(1836〜1908)
政治家 |
薩摩藩(鹿児島県)に生まれる。戊辰戦争にも従軍する。
1880年広島県令(後の知事)となり、殖産興業や道路建設など多岐にわたる施策を行った。中でも宇品の埋め立て、築港を強力に進め、1889年宇品港を 完成。同年、新潟県知事に転任。以後和歌山、愛知、京都、宮崎の知事を務める。1898年には男爵、1904年には貴族院議員となる。南区宇品御幸一丁目
の千田廟公園には、その功労を記念する像があり、千田町という地名も千田貞暁の名にちなんで命名されたものである。 |
かとう ともさぶろう
加藤
友三郎
(1861〜1923)
海軍軍人、政治家 |
広島市大手町(広島市中区)に生まれる。父は広島藩士。子爵。
1883年海軍少尉に任官し、日露戦争では連合艦隊参謀長を務める。第2次大隈内閣、寺内内閣、原内閣、高橋内閣の海相を歴任し、1921年ワシントン軍 縮会議の首席全権委員を務める。1922年、広島県では初めてとなる、第21代内閣総理大臣に就任し、シベリア撤兵、海軍軍縮条約を履行したが、在任中に
没する。比治山公園に像が建てられたが、現在は台座のみが残っている。中区大手町三丁目の大手町第2公園には「加藤友三郎生誕の地」の石碑がある。
(中区基町の中央公園内に銅像が新しく建立され、没後85年にあたる2008年8月24日除幕式が行われた。) |
はやみ せいじ
早速
整爾
(1868〜1926)
政治家 |
広島県沼田郡新庄村(広島市西区)に生まれる。旧姓、中山。
1887年東京専門学校政治経済英学科(現・早稲田大学)を卒業。1889年芸備日日新聞社社主 早速家の養子となり、同年社長兼主筆として同社を経営。
1896年県会議員、1902年衆議院議員、1910年広島市議会議長歴任後、1916年憲政会の結成に参加、財政通、経済通として頭角を現し、1925 年の加藤高明の憲政会内閣で農相、更に翌年の若槻内閣では蔵相となるが、病気のため、3ヶ月後亡くなる。
生前の功績により1929年比治山公園に銅像が建てられたが、第二次世界大戦時の資源回収で取り除かれ、現在は台座のみが残っている。 |
まつだ じゅうじろう
松田
重次郎
(1875〜1952)
実業家、マツダ創業者 |
安芸郡仁保島向洋(広島市南区)に生まれる。
1906年松田式ポンプを発明し、1915年には松田製作所を設立する。1920年コルクを製造する東洋コルク工業の創立に参加し、翌年に社長となる。そ の後社名を東洋工業にあらため工作機械メーカーに転身し、1931年には3輪トラックの製造を開始し自動車業界に進出する。1951年会長。
多年の労をたたえ、比治山公園に銅像が建てられた。 |
あわや せんきち
粟屋
仙吉
(1893〜1945)
被爆時の広島市長
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山口県に生まれる。東京帝国大卒。
1919年内務省に入り、以後、1933年大阪府警察部長等を務め、1943年7月請われて広島市の第18代市長(官選)となる。1945年8月6日市長官舎で被爆し死亡する。 |
いけだ はやと
池田
勇人
(1899〜1965)
政治家 |
広島県竹原市に生まれる。京都帝国大卒。
1947年大蔵省事務次官。1949年衆議院議員となり、第3次吉田内閣では蔵相としてドッジ・ラインによる財政の均衡に務める。1952年通産相、 1960年〜1964年首相となり、三次にわたる内閣を組織し、所得倍増を唱え、高度経済成長政策を推進する。広島城東側堀横に像がある。 |
なだお ひろきち
灘尾
弘吉
(1899〜1994)
政治家 |
広島県佐伯郡大柿町(江田島市大柿町)に生まれる。東京帝国大卒。
内務省に入り、大分県知事などをへて、終戦時は内務省次官。公職追放を受けたが、解除後の1952年衆議院議員となる。石橋内閣をはじめとして文相を通産 6期つとめ、そのほか厚相、自由民主党総務会長なども歴任し、1979年第61代衆議院議長となる。広島城西側堀横に像がある。 |
はまい しんぞう
浜井
信三
(1905〜1968)
元広島市長 |
広島市三川町(広島市中区)に生まれる。東京帝国大卒。
1945年広島市配給課長の時に被爆する。1947年公選による初代の広島市長となる。広島市長在任は通算4期(1947年〜1967年、中一期は渡辺忠 雄市長)にわたり、毎年8月6日に核兵器廃絶と世界平和を希求して平和記念式典を開催するとともに、平和記念公園の建設、原爆ドームの保存をはかる。死去にあたり、「市民葬」を実施する。著作に「原爆市長」。平和記念資料館に胸像がある。 |
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もりと たつお
森戸
辰男
(1888〜1984)
社会学者・政治家・教育者 |
福山市生まれ。
1916年(大正5年)東京帝国大学の助教授に就任した。1920年(大正9年)経済学部の機関誌の創刊号に掲載した「クロポトキンの社会思想の研究」が 問題となり、辞職。大原社会問題研究所に入る。1946年(昭和21年)社会党から立候補し、衆議院議員となる。当選は3回であり、片山・芦田内閣の文部
大臣にも就任した。政界を退いて後、1950年(昭和25年)初代の広島大学長、広島大学の整備、拡充に意を注ぐなど、地方文化、教育の発展に貢献した。退官後は引き続き中央教育審議会会長、日本育英会会長、NHK学園高校校長、日本ユネスコ国内委員会会長など教育関係の要職を歴任した。 |
すずき みえきち
鈴木
三重吉
(1882〜1936)
小説家・児童文学者
|
広島市猿楽町(広島市中区)に生まれる。本川小学校、県立第一中学校を経て、東京帝国大卒。
大学休学中、静養先の能美島で書きあげた「千鳥」が夏目漱石に激賞され、続いて「山彦」「小鳥の巣」「桑の実」などの秀作を発表。また、1918(大正7)年、雑誌「赤い鳥」を創刊し、児童文学史上不朽の功績を残した。原爆ドーム西側とこども図書館前に円鍔勝三作の記念碑がある。 |
たなか じゅん
田中
純
(1890〜1966)
小説家・劇作家 |
広島市大手町(広島市中区)に生まれる。早稲田大学卒。
1919(大正8)年、戯曲「五月の朝」で注目され、帝劇で上演。同年11月、里見ク、久米正雄らと雑誌「人間」を創刊。多くの戯曲・小説を発表。代表作「妻」は、信仰と愛欲の葛藤を描き高く評価された。 |
ほそだ たみき
細田
民樹
(1892〜1972)
小説家 |
東京に生まれるが、幼時父の郷里山県郡千代田町(山県郡北広島町)で過ごした。
軍隊批判を内容として代表作の一つとなった「或兵卒の記録」や、プロレタリア文学の影響を受けた作品群など数多くの小説を発表。第二次世界大戦中郷里に疎 開。戦後もしばらく広島の文学発展に尽力。「広島悲歌」などの著作がある。 |
わかすぎ けい
若杉
慧
(1903〜1987)
小説家
|
安佐郡戸山村(広島市安佐南区)に生まれる。広島高等師範学校卒。
前半生は教師。「微塵世界」で注目され文壇に登場。代表作とされる「エデンの海」は世評をよび映画化された。晩年は旅と石仏に心を寄せ、随筆、写真集を刊行している。 |
おおた ようこ
大田
洋子
(1903〜1963)
小説家 |
山県郡原村(山県郡北広島町)に生まれる。進徳高等女学校卒。
広島の妹宅で被爆。「屍の街」は佐伯郡の避難先で障子紙やちり紙に綴られた。
他に「海女」「桜の国」「人間襤褸」「半人間」「夕凪の街と人と」などがある。中央公園(空鞘橋東詰)に文学碑がある。 |
はら たみき
原
民喜
(1905〜1951)
詩人・小説家
|
広島市幟町(広島市中区)に生まれる。慶応義塾大学卒。
広島疎開中に被爆。佐伯郡八幡村(広島市佐伯区)に移り、「夏の花」(原題「原子爆弾」)を執筆。翌年上京。「三田文学」の編集に携わり、遠藤周作らの後進を育てる一方、原爆体験にもとづく作品を発表していった。原爆ドーム東側に詩碑がある。 |
あがわ ひろゆき
阿川
弘之
(1920〜)
小説家
|
広島市白島九軒町(広島市中区)に生まれる。東京帝国大学卒。
海軍予備学生として入隊。復員後、文筆生活に入り「春の城」で作家としての地位を確立した。以後「魔の遺産」「雲の墓標」「山本五十六」「井上成美」な ど、多くの作品を発表している。1999年(平成11年)文化勲章受賞。 |
かつら よしひさ
桂
芳久
(1929〜2005)
小説家
|
高田郡吉田町(安芸高田市吉田町)に生まれる。慶応義塾大学卒。
三島由紀夫の推薦で「群像」に「刺草の蔭に」を載せ、文壇に登場。原爆体験と死の虚無感を描き、やがて長編「海鳴りの遠くより」に発展させる。主著に「火と碑」「水と火の伝承」「光の祭場」など。 |
たけにし ひろこ
竹西
寛子
(1929〜)
小説家・文芸評論家 |
広島市皆実町(広島市南区)に生まれる。早稲田大学卒。
1964(昭和39)年「往還の記」で田村俊子賞受賞。「儀式」が女流文学賞候補となり、注目を集める。以来、小説、評論両分野に活躍。文学賞受賞も多 数。原爆と現代をテーマにした「管絃祭」は、1978年(昭和53年)女流文学賞、「贈答のうた」は2003年(平成15年)野間文芸賞を受賞している。 |
かじやま としゆき
梶山
季之
(1930〜1975)
小説家 |
現在の大韓民国ソウル市に生まれる。広島高等師範学校国語科卒。
高師在学中から同人誌「天邪鬼」を主宰し、原民喜詩碑建立に奔走する。
社会派推理小説「黒の試走車」で文壇デビュー。現代世相を鋭く描くもの、官能的なものと多彩な活躍ぶりで、多くの読者を得た。中区加古町アステールプラザ西(本川河畔)に文学碑がある。 |
おおば みなこ
大庭
みな子
(1930〜2007)
小説家 |
東京に生まれるが、終戦を賀茂郡西条町(東広島市)で迎え、被爆後の広島に救援隊として動員される。津田塾大学卒。
1968年(昭和43年)「三匹の蟹」で群像新人賞と芥川賞を受賞し文壇に登場。以後幻想的で詩的な作品を次々と発表した。2007年(平成19年)5月24日死去。 |
おかやま いわお
岡山
巌
(1894〜1969)
歌人 |
広島市水主町(広島市中区)に生まれる。東京帝国大学卒。
1931年(昭和6年)「歌と観照」を創刊し、没年まで主宰。歌論の根底を西田哲学にすえ、当時期における短歌革新の旗手であった。主著に「短歌文学論」 を軸とする10数冊の歌論や、「思想と感情」「運命」などの歌集がある。 |
しょうだ しのえ
正田
篠枝
(1910〜1965)
歌人 |
安芸郡江田島町(江田島市江田島町)に生まれる。安芸高等女学校卒。
広島市平野町(広島市中区)の自宅で被爆。占領下の言論統制が行われている中で、原爆の悲惨さを怒りをこめてうたった「さんげ」を秘密出版した。他に、「耳鳴り」「百日紅」、童話集「ピカッ子ちゃん」などがある。 |
こんどう よしみ
近藤
芳美
(1913〜2006)
歌人 |
現在の大韓民国に生まれるが、12歳より広島市鉄砲町(広島市中区)の祖母のもとに寄留。東京工業大学卒。
1932年(昭和7年)、旧制広島高等学校在学中に中村憲吉に会い「アララギ」に入会、憲吉没後は土屋文明に師事。1948年(昭和23)、歌集「早春 歌」「埃吹く街」で注目され、以来、戦後短歌の旗手として多くの歌集評論集などを発表した。2006年(平成18年)6月21日死去。 |
おおき あつお
大木
惇夫
(1895〜1977)
詩人 |
広島市天満町(広島市西区)に生まれる。広島県立商業学校卒。
北原白秋に師事し、1925年(大正14年)、処女詩集「風・光・木の葉」を刊行。詩人としての地位を定め、多くの作品を発表。詩作のほか、訳詩・小説・伝記・児童文学・歌謡曲の作詩などにも才能を発揮した。 |
とうげ さんきち
峠
三吉
(1917〜1953)
詩人 |
大阪に生まれるが、幼時から広島市翠町(広島市南区)に育つ。広島県立商業学校卒。
翠町の自宅で被爆。代表作「原爆詩集」をはじめ、詩作を通じて原爆の全人類的災禍を訴えた。また、「広島青年文化連盟」委員長として、文化サークル活動推進にも力を注いだ。平和記念公園内に詩碑がある。 |
くろだ さぶろう
黒田
三郎
(1919〜1980)
詩人 |
呉市に生まれる。
1947年(昭和22年)、鮎川信夫・田村隆一らと「荒地」を創刊。詩集「ひとりの女に」(H氏賞受賞)「失われた墓碑銘」「もっと高く」などのほか、評 論集もある。また、「日本現代詩人会」理事長や「詩人会議」運営委員長も務めた。 |
おさない かおる
小山内
薫
(1881〜1928)
演出家、劇作家、
小説家 |
広島市大手町(広島市中区)に生まれる。東京帝国大学卒。
歌舞伎でも新派でもない新劇の樹立を提唱し、1909年(明治42年)、市川左団次らと「自由劇場」を設立。1924年(大正13年)、土方与志らと「築地小劇場」を興すなど、日本近代演劇の開拓者として活躍した。 |
はた こういち
畑
耕一
(1896〜1957)
小説家・評論家・
劇作家 |
広島市堀川町(広島市中区)に生まれる。東京帝国大学卒。
戯曲、劇評、大衆小説などに幅広く活躍。主著に「棘の楽園」「広島大本営」「笑い切れぬ話」などがある。1944年(昭和19年)、安佐郡可部町(広島市安佐北区)に疎開。戦後は広島の文化運動に寄与し、この地に没した。 |
しんどう かねと
新藤
兼人
(1912〜)
脚本家・映画監督 |
佐伯郡石内村(広島市佐伯区)に生まれる。
シナリオを発表しつつ、映画の監督にも力を注いでいる。主な監督作品に、「第五福竜丸」モスクワ映画祭グランプリの「裸の島」「原爆の子」など。主著に 「シナリオ修業」「新藤兼人映画著作集」などがある。長年の映画製作に対して、1997年(平成9年)に文化功労者、2002年(平成14年)に文化勲章
が授与された。 |
くりはら さだこ
栗原
貞子
(1913〜2005)
詩人 |
安佐郡可部町(広島市安佐北区)に生まれる。広島県立可部高女卒。
1931年(昭和6年)栗原唯一と結婚する。戦争中でも「人間の尊厳」などの反戦詩を書き、1945年(昭和20年)8月6日は広島市祇園町長束(安佐南 区祇園)で被爆する。1945年末夫の唯一や細田民樹らと「中国文化連盟」を結成し、1946年3月いち早く原爆の被害を特集した雑誌「中国文化」を創刊
する。1946年検閲による削除は受けたが、原爆の惨状を描いた詩歌集『黒い卵』を出版する。罹災後の瓦礫の中で新たな生命が誕生した一夜を歌った「生ま しめんかな」など多くの詩篇だけでなく、核兵器の廃絶を訴える活動を続ける。2005年(平成17年)3月6日死去。 |
さとう はるお
佐藤
春夫
(1892〜1964)
詩人・作家 |
和歌山県新宮町(新宮市)に生まれる。慶應義塾大学中退。
医者で文芸に造詣の深い父の影響を受け、文学少年として成長する。谷崎潤一郎に見出され文壇に登場し、以来、次々と作品を発表し、芥川龍之介と並ぶ作家と 目される。「三田文学」の編集に携わる中で、原民喜と交流し、その死にあたっては、友人代表として追悼文を撰し、原爆ドーム横の原民喜詩碑の裏面に刻まれる。1960年(昭和35年)文化勲章受章。 |
くさの しんぺい
草野
心平
(1903〜1988)
詩人 |
福島県に生まれる。1921年(大正10年)、中国広州に渡り、嶺南大学に学ぶ。
1925年(大正14年)詩誌「銅鑼」を創刊、帰国後の1928年詩集『第百階級』を刊行する。1935年(昭和10年)には「歴程」の創刊に加わり、戦 後も旺盛な詩作を続ける。平和記念公園内の平和祈念像(円鍔勝三作)にも一編の詩を寄せている。1975年(昭和50年)芸術院会員。1987年(昭和
62年)文化勲章受章。 |
なかはら ちゅうや
中原
中也
(1907〜1937)
詩人 |
山口県に生まれる。東京外語専修科修了。
京都の立命館中学時代からダダイズム(既成の概念を否定するヨーロッパで発生した芸術運動)の詩作を行い、上京してからは小林秀雄と知り合い、ランボー、 ベルレーヌなどの影響を受ける。代表作として、「山羊の歌」、「在りし日の歌」などがある。
2歳から5歳の幼児期、父の任地の広島に在り、広島女学校(現・広島女学院)附属幼稚園へ通っている。 |
まさおか しき
正岡
子規
(1867〜1902)
俳人、歌人 |
伊予国松山(愛媛県松山市)に生まれる。東京帝国大中退。本名、常規(つねのり)。
大学中退後、日本新聞社に入り、紙上で俳句の革新運動を展開し、俳誌「ホトトギス」を主宰する。1898年(明治31年)には「歌よみに与ふる書」を著し、短歌の革新を図るなど、近代文学に大きな足跡を遺している。
1895年(明治28年)3月、日清戦争の従軍記者として派遣される時、宇品港に立寄り4月10日出港までの20日程広島に滞在する。この時、比治山から の広島市内の街並みを詠んだ句の記念碑が比治山公園展望台にあり、他に南区宇品御幸の千田廟公園にも句碑がある。 |
くらた ひゃくぞう
倉田
百三
(1891〜1943)
大正・昭和初期の
劇作家・評論家 |
庄原市に生まれる。第一高等学校中退
一高在学中に西田幾太郎の影響を受ける。1917年(大正6年)戯曲「出家とその弟子」を発表し、評論集「愛と認識との出発」は青春の必読書となる。最初 は白樺派に接近していたが、後には超国家主義に傾いた。代表作の「出家とその弟子」は、療養のため南区丹那の民家に寄宿していた時の作品で、翻訳本を読ん
だフランスの文豪ロマン・ロランも絶賛したといわれている。丹那の穴神社横には、この名作がこの地で生まれたことを記念する碑が建てられている。 |
すぎむら はるこ
杉村
春子
(1906〜1997)
女優 |
広島市西地方町(広島市中区)に生まれる。山中高等女学校卒。
1927年(昭和2年)上京し、築地小劇場の研究生、1937年(昭和12年)文学座の創立に加わり中心メンバーとなる。1945年(昭和20年)「女の 一生」初演、1947年三越劇場での「女の一生」の演技で第一回芸術院賞を受賞する。その後、舞台、映画・テレビで活躍する。1988年(昭和63年)
「近松女敵討」で芸術祭賞を受賞する。 |
きむら いさお
木村
功
(1923〜1981)
俳優 |
広島市千田町(広島市中区)に生まれる。文化学院文学部卒。
文化学院在学中に映画『ハワイ・マレー沖海戦』に出演。1944年(昭和19年)召集を受け約1年間の海軍生活を送る。1946年(昭和21年)「俳優 座」に入団。1949年(昭和24年)黒澤明監督の『野良犬』に出演し大きな注目を集めた。1950年(昭和25年)「俳優座」を退団し「青年俳優クラ
ブ」(後の「劇団青俳」)を結成。劇団の中心的存在として、舞台活動のかたわら、『山びこ学校』『真空地帯』『生きる』『雲ながるる果てに』『七人の侍』 等多くの映画に出演。日本映画史に残る名優の一人である |
えんつば かつぞう
圓鍔
勝三
(1905〜2003)
彫刻家。本名勝二。 |
御調郡御調町(尾道市御調町)に生まれる。1932年(昭和7年)日本美術学校卒。
日本美術学校彫刻科在学中の1930(昭和5年)年第11回帝展初入選、その後各種の賞を受賞する。1966年(昭和41年)日本芸術院賞を受賞、 1970年(昭和45年)日本芸術院会員となり、1982年(昭和57年)には文化功労者に選ばれ、1988年(昭和63年)文化勲章を受章する。
1993年(平成5年)郷里に円鍔記念館が開館。平和記念公園を中心に、広島市内に多数の作品がある。 |
まるき すま
丸木
スマ
(1875〜1956)
画家
丸木位里の母 |
安 佐郡伴村(広島市安佐南区)に生まれる。1897年(明治30年)飯室村(広島市安佐北区)の丸木金助と結婚。家業の船宿を手伝うかたわら農業に従事す
る。1901年(明治34年)長男位里出産。70歳を過ぎてから丸木位里・俊夫妻にすめられて絵を描き始める。1949年(昭和24年)広島県美術展に入 選。1951年(昭和26年)〜1953年(昭和28年)日本美術院展に入選、院友となった。1956年(昭和31年)81歳で死亡するまでに700点を
超える厖大な数の絵を描いた。 |
まるき いり
丸木
位里
(1901〜1995)
日本画家 |
安佐郡飯室村(広島市安佐北区)に生まれる。飯室尋常高等小学校卒。
田中頼璋らから日本画を学ぶ。水墨画に抽象的表現を持ち込み独自の画風をうちたてる。1941年(昭和16年)洋画家の赤松俊と結婚。
原爆投下の数日後に位里が、続いて俊が広島に入り約1ヶ月救援に携わる。1950年(昭和25年)〜1982年(昭和57年)俊との共同制作による「原爆 の図」15部作を発表。「原爆の図」は国内各地および世界20ヶ国以上で巡回展示され大きな反響を呼んだ。広島市現代美術館に「原爆の図」初期3部作の再制作版と「ひろしまの図」(俊との共同制作)がある。 |
おおた ちゅう
太田
忠
(1908〜1971)
洋画家 |
広島市西蟹屋町(広島市南区)に生まれる。広島東高等小学校卒。
1923年(大正12年)日本国有鉄道広島機関庫に就職。機関車好きの中西利雄(洋画家)から小磯良平(洋画家)を紹介され、以後小磯に師事する。 1938年(昭和13年)から1963年(昭和38年)定年退職するまで三次市に住み、機関士のかたわら絵の道に励む。退職後2度渡仏し画境を広げた。県
北の風景を独特の材質感と鮮やかな色彩で描いた作品を多く残している。 |
はまさき さはつし
浜崎
左髪子
(1912〜1989)
日本画家 |
アメリカ合衆国ハワイ・ヒロ市に生まれる。間もなく広島に帰国。広陵中学校卒。
1930年(昭和5年)広島県美術展に初入選。新文展など多くの美術展に入選を果たす。戦後は広島県美術展の審査員を務め、美術館建設のための運動などの 文化運動にも関わる。大作を発表するかたわら、包装紙などをデザインし、風格と明るい大らかさを併せ持つ作品を多数残す。 |
ふくい よしろう
福井
芳郎
(1912〜1974)
洋画家 |
広島市的場町(広島市南区)に生まれる。大阪美術学校卒。
斉藤与里に師事して洋画を学ぶ。1931年(昭和6年)広島洋画研究所を開き、帝展・東光展などを中心に旺盛な創作活動を続け、1943年(昭和18年) より東光会会員。1945年(昭和20年)8月6日広島の原爆で被爆、その体験をもとに「ヒロシマの怒り」「黒い雨」をはじめとする原爆記録絵画を制作。
戦後も日展などに出品し、1957年(昭和32年)には新協美術会の創立会員となった。 |
ひらやま いくお
平山
郁夫
(1930〜)
日本画家 |
豊田郡瀬戸田町(尾道市瀬戸田町)に生まれる。東京美術学校(東京芸術大学)卒。
1945年(昭和20年)8月6日修道中在学時、勤労動員先で被爆する。1953年(昭和28年)第38回院展で初入選する。1973年(昭和48年)以 来東京芸大教授を務め、1989年(平成元年)から学長となる。1998年(平成10年)文化勲章受章。
平和記念公園の平和記念資料館東館1階に「平和のキャラバン(東)」と地階に「広島生変図」、国際会議場には「平和のキャラバン(西)」の陶壁画がある。 |
たんげ けんぞう
丹下
健三
(1913〜2005)
建築家 |
大阪府に生まれる。東京帝国大建築学科卒。
旧制広島高等学校出身で、戦後の広島平和記念公園の競技設計などを手がけて、その地位を確立する。香川県庁舎、国立屋内総合競技場、東京都庁などをはじめ、ユーゴスラビアのスコピエ再建都市計画、伊ボローニャの都市計画なども手がける。1980年(昭和55年)文化勲章受賞。2005年(平成17年)3月22日死去。 |
イサム・ノグチ
Isamu
Noguchi
(1904〜1988)
彫刻家 |
米国ロサンゼルスに生まれる。野口米次郎(1875〜1947詩人)の子。
子供時代を日本で過ごすが、のちアメリカに帰り、彫刻家となることとし、奨学金を得てパリでブランクーシに師事する。その後中国、日本で書、造園、陶芸を学び、以後彫刻にとどまらない庭園制作など幅広い分野で活躍する。平和記念公園を東西につなぐ平和大橋と西平和大橋は、彼のデザインによるものである。 |
おおえ けんざぶろう
大江 健三郎
(1935〜)
小説家 |
愛媛県喜多郡大瀬村(喜多郡内子町)に生まれる。東京大学仏文科卒。
大学在学中の1958年(昭和33年)「飼育」で第39回芥川賞受賞。新しい文学の担い手となる。国際的な作家、評論家としても幅広く活躍し、1994年 (平成6年)には川端康成に続く日本人2人目のノーベル文学賞を受賞する。原爆、平和等の社会問題に対する関わりも深く、「ヒロシマ・ノート」「核時代の
創造力」などもある。
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てしま やざえもん
豊嶋
弥左衛門
(1899〜1978)
能楽師 |
広島市上幟町(広島市中区)に生まれる。
豊嶋家はもと浅野藩のお抱え能楽師であった。1905年(明治38年)「鞍馬天狗」の子方で初舞台。1913年(大正2年)「猩々(しょうじょう)」の初 シテを務める。同年京都金剛家に入門し、シテ方金剛流能楽師となる。1948年(昭和23年)家名の弥左衛門を襲名。1972年(昭和47年)芸術祭大賞
を受賞。1977年(昭和52年)人間国宝に認定され、京都市文化功労者にも選ばれた。 |
しまばら はんざん
島原
帆山
(1901〜2001)
尺八奏者 |
佐伯郡五日市町(広島市佐伯区)に生まれる。中国吉林省の長春中学校卒。本名 重蔵。
1919年(大正8年)岡本葉山に入門。1926年(大正15年)準師範、皆伝を受ける。1939年(昭和14年) 大師範。1941年(昭和16年)都山流の最高冠称竹琳軒の冠号を許される。広島を拠点として全国的に演奏活動を展開。原爆で焦土と化した広島を題材に作
曲した「平和広島」は流祖中尾都山により「平和の山河」に仕上げられ、平和への祈りをこめて全国で演奏された。1969年(昭和44年)には米国公演を行 い、好評を博した。1982年(昭和57年)人間国宝に認定される。1989年(平成元年)広島市名誉市民となる。2001年(平成13年)8月6日原爆
慰霊碑前で「平和の山河」を献曲した。2001年(平成13年)12月15日死去。
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ささき ひさこ
佐々木
久子
(1927〜2008)
編集者・評論家・随筆家 |
広島市生まれ。
1945年(昭和20年)広島で被爆。1955年(昭和30年)雑誌「酒」を創刊し、地酒を発掘して全国行脚した。以来1997年(平成9年)に501号 をもって休刊するまで42年間編集長を務める。創刊の翌年赤字で廃刊に追い込まれそうになった同誌を救ったのは友人の火野葦平である。報酬なしで原稿と扉
を書いたばかりでなく、仲間の作家たちを紹介した。小説家で夫の坂口安吾をなくし、1956年(昭和31年)文壇バーを開いたばかりの坂口三千代に「クラ クラ日記」の執筆を勧め、11年間、同誌に連載。これは後に単行本化され、テレビドラマ化もされた。1966年(昭和41年)広島出身者や縁のある芸能・
文化人と「広島カープを優勝させる会」を結成、代表世話人となって奔走、1975年(昭和50年)のカープ初優勝への原動力となった。 |
やまずみ まもる
山隅
衛
(1894〜1960)
歌人 |
広島県佐伯郡廿日市町(現廿日市市)生まれ。1914年(大正3年)天満小学校を
皮切りに小学校教師となり、2年後短歌を始める。1921年(大正10年)、文芸月刊雑誌「晩鐘」を創刊。本人は間茂留の名で俳句、短歌、童謡を掲載。休 刊した時期もあったが、「晩鐘」を維持し続ける。1944年(昭和19年)7月広島県国民詩歌協会を設立し、理事長となる。戦後は学年別教育誌「ぎんのす
ず」に執筆したり、広島刑務所の受刑者に対して短歌指導も行っている。「晩鐘」は80年間続いたが、2001年(平成13年)3月「合同歌集 晩鐘」を最 後に終刊した。この間、多くの歌人を輩出し、地方文化の発展に寄与した。 |
やまもと やすお
山本
康夫
(1902〜1983)
歌人 |
長 崎県北高来郡小栗町生まれ。父親の影響で文芸一般に通じ、1924年(大正13年)尾上芝舟に師事。1930年(昭和5年)中国新聞入社。「広島の地にも
本格的な短歌結社を作りたい」という強い意志を胸に抱き、11月「処女林」(広島短歌会発行)を創刊した。その歌の方針は、当初より「内面の訴えを客観的 表現のうちに沈潜させた歌境」を目指し、正しい日本語で正しく詠んでいくというものであった。1931年(昭和6年)「新樹」に改題、翌年「真樹」に改題
した。戦後は広島発の学年別教育誌「ぎんのすず」にも執筆した。「真樹」は多くの歌人を輩出し、地方文化の発展に寄与した。日本歌人クラブ中国地区幹事。 歌集に「萱原」「生命新象」「秋光」「生命讃歌」、歌論集に「短歌の真実」「歌話との随想」などがある。 |
ヤン・レツル
Jan
Letzel
(1880〜1925)
建築家 |
チェ コのナホトに生まれる。プラハ美術専門学校建築科卒。1907年(明治40年)建築事務所に就職するために来日。1909年(明治42年)独立し建築設計
事務所を設立。1916年(大正5年)に一時帰国するが1918年(大正7年)再来日。日本に滞在した約10年間に松島パークホテル、広島県物産陳列館、 宮島ホテルなど20余りの設計に従事した。広島県物産陳列館(後の産業奨励館)は1915年(大正4年)完成。現在は原爆ドームとして世界に平和を訴えている。原爆ドームは1996年(平成8年)ユネスコの世界遺産に登録された。 |
フロイド・シュモー
Floyd
Schmoe
(1895〜2001)
森林学者 |
原爆によって住む家を失った人達のため、「ヒロシマの家」計画の名の下に住宅建築資金の募金を始め、1948年(昭和23年)から1953年(昭和28年)にかけて地元の協力者とともに住宅15軒、公民館(シュモー会館)1棟を建築、広島市に寄贈した。1983年(昭和58年)
広島市特別名誉市民の称号を受ける。アメリカのシアトル市には1990年(平成2年)シュモー氏の働きかけで建設された「シアトル・ピース・パーク」があり中央にサダコ像が設置されている。 |
エドマンド・ブランデン
Edmund
Blunden
(1896〜1974)
詩人・評論家 |
イ ギリスのロンドンに生まれる。第一次世界大戦に従軍。戦後オックスフォード大学に復学。1924年(大正13年)〜1927年(昭和2年)東京帝国大学で
英文学教師を務める。1947年(昭和22年)イギリス政府の使節として再来日し1950年(昭和25年)まで滞在。日本文化再興のため、国内各地で講演 を行った。1948年(昭和23年)冬、広島を訪れ、「HIROSHIMA
―1949年8月6日によせて―」という詩を残している。広島市立中央図書館前(北側)にこの詩を刻んだ詩碑がある。 |
えのみや まきび
愛宮
真備
(1898〜1990)
神父 |
ド イツのウェストファーレンに生まれる。本名フーゴー・ラサール(Hugo Lassale)。第一次世界大戦で戦傷を負い、戦後、1919年(大正8年)イエズス会に入会。オランダの聖イグナチオ大学、イギリスのストーハーニス
ト大学、ヒースロッブ大学院等で哲学や神学を学ぶ。1929年(昭和4年)来日。上智大学教授を務め、1940年(昭和15年)から広島カトリック教会に 転じた。1945年(昭和20年)8月6日被爆。世界平和記念聖堂の建設に尽力する。1948年(昭和23年)日本に帰化。1968年(昭和43年)広島
市名誉市民となる。1990年(平成2年)ドイツで死去した。 |
アイラ・モリス
Ira
Morris
(1903〜1972)
作家 |
フ ランス在住のアメリカ人作家。ハーバード大学卒。1955年(昭和30年)および1957年(昭和32年)広島を訪れ、1957年(昭和32年)被爆者の
精神的安らぎのために私費を投じて南区宇品西二丁目に「広島憩いの家」を創設。1967年(昭和42年)広島市特別名誉市民の称号を受けた。 |
エディタ・モリス
Edita
Morris
(1903〜1988)
作家
アイラ・モリスの妻 |
ス ウェーデンの軍人の家庭に生まれる。ロンドンで勉学中アイラ・モリスと知り合い、結婚。夫とともに「広島憩いの家」創設に尽力する。1959年(昭和34
年)広島の被爆者に取材した小説『ヒロシマの花』をロンドン、パリ、ニューヨークで同時出版。ベストセラーになり30カ国で翻訳され300万部を売り上 げ、シュバイツァー文学賞を受賞した。1967年(昭和42年)広島市特別名誉市民の称号を受けた。 |
マルセル・ジュノー
Marcel
Junod
(1904〜1961)
医師 |
ス イスのラ・ショー・ド・フォンに生まれる。1945年(昭和20年)8月9日赤十字国際委員会の代表として来日。原爆被災の惨状を知り、GHQ(連合国軍
最高司令官総司令部)に交渉し、15トンの医薬品を送らせた。自らも9月8日広島に入り、惨禍の実情を調査し、治療にあたった。平和記念公園南側に記念碑、広島赤十字・原爆病院にレリーフ、袋町小学校西側にジュノー広場がある。 |
メアリ・マクミラン
Mary
McMillan
(1912〜1991)
宗教家 |
アメリカのフロリダ州ペンサコラに生まれる。テネシー州スカーレット大学大学院で聖書、文学を学び宣教師に任命される。テネシー州バンダビルド大学大学院で社会福祉学を学ぶ。1947年(昭和22年)広島女学院専門部教授に就任(翌年広島女学院大学教
授)。牛田教会設立を支援する。広島日米協会役員やワールド・フレンドシップ・センター理事などを務め、広島キリスト教社会館など多くの事業に加わった。 また広島県、市の社会事業関係課でケーススタディーを手伝い、物心両面の支援を惜しまなかった。1980年(昭和55年)広島市特別名誉市民の称号を受け
た。 |
ジョン・ハーシー
John
Hersey
(1914〜1993)
ジャーナリスト・作家 |
ア メリカ人。中国で宣教師をしていた父の関係で天津に生まれる。エール大学卒。「タイム」の記者として第二次世界大戦に従軍。小説 『アダノの鐘』でピュリッツァー賞を受賞した。1946年(昭和21年5月広島を訪れ、流川教会の谷本清牧師ら6人の被爆者から聞き取りを行い、アメリカ
の週刊誌「ニューヨーカー」に『ヒロシマ』を発表。即日30万部を売り尽くし、新聞にも連載され、大きな反響を呼んだ。1985年(昭和60年)にも来広 し、広島のその後を「ニューヨーカー」に寄稿した。 |
ノーマン・カズンズ
Norman
Cousins
(1915〜1990)
ジャーナリスト |
ア メリカのニュージャージー州に生まれる。コロンビア大学卒。ニューヨークの文芸雑誌「土曜文学評論」の編集長として1949年(昭和24年)広島を訪れ、
ルポ「4年後のヒロシマ」を発表。これを契機に、流川教会の谷本清牧師らとともに原爆により家族を失った子どもたちに対する「精神養子運動」を行い、 400名を超える子どもたちに物心両面で支援した。さらに1955年(昭和30年)谷本牧師や原田東岷医師が取り組んでいた原爆後遺症のケロイドの治療に
関わり、25名の女性の渡米治療に尽力した。1964年(昭和39年)広島市特別名誉市民の称号を受けた。平和記念公園南側に記念碑がある。 |
バーバラ・レイノルズ
Barbara
Reynolds
(1915〜1990)
平和活動家 |
アメリカのオハイオ州ミルウォーキーに生まれる。コロンビア大学中退。1951年(昭和26年)ABCC(原爆傷害調査委員会 現・放射線影響研究所)
研究員の夫とともに来日。1962年(昭和37年)広島の被爆者とともに欧米の国々を訪問する「平和巡礼計画」を実施。原水爆使用禁止や核実験停止を訴え た。1964年(昭和39年)にも「ヒロシマ・ナガサキ世界平和研究使節団」を実施。1965年(昭和40年)「ワールド・フレンドシップ・センター」を
発足させた。1969年(昭和44年)離日。オハイオ州ウィルミントン大学「ピース・リソース・センター」に「ヒロシマ・ナガサキ原爆祈念文庫」を設立。 1975年(昭和50年)広島市特別名誉市民の称号を受けた。 |
ヨハネ・パウロ2世
Ioannes
PaulusU
(1920〜2005)
ローマ法王 |
ポー ランドのヴァドヴィツェに生まれる。1942年(昭和17年)から地下組織の神学校で学ぶ。1946年(昭和21年)司祭となりローマへ留学。アンジェリ
クム神学大学で学び、神学博士号を授与される。1978年(昭和53年)第264代の教皇に選出される。100カ国以上を訪問し、人間の尊厳と世界の平和 を訴え、他派のキリスト教会や異宗教との対話にも力を入れていた。1981年(昭和56年)2月来日し東京、広島、長崎を訪問。2月25日広島から全世界
に向けて平和アピールを発した。平和記念資料館の1階ロビーにローマ法王平和アピール碑がある。 |