畑耕一翻訳 M・R・ジェイムズ怪談集
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る わけこ つらそれから窓の方を指ざし、なにごとか言った。女はうなずいた。そして階下の男がしたようなことをした。―窓扉をあけ、むしろ芝居気たっぷりに耳をすました。それから首をひっこめ、ため息ついているように見える老人へ眼をやって、首を振った。 この時、火の上のポジット〔熱い牛乳に葡萄酒などを加えた飲料〕は噴き出した。乳母はそれを二つの手のついた小さな銀鉢にそそぎ、寝台のそばへ持って行った。老人は嫌がるように、手を振った。しかし、女と乳母はともども老人へかがみ込んだ。あきらかにそれを老人に無理じいしているのだった。二人は老人を抱えあげて坐らしたので、老人もしかたなく、銀鉢を口にあてた。ゴクンゴクンと、ほとんど全部飲みほしたので、女と乳母は老人を寝かしてやった。女は微笑とともに「おやすみなさい」を言って、部屋を立ち去った。鉢も瓶も銀のソース鍋も持って行ってしまった。乳母はまた肱掛椅子へよりかかった。しばらくあたりはシーンと静まりかえった。 突然、老人は寝台の中で跳ね起きた。―彼はなにか叫んだにちがいなかった。というのは、乳母も椅子から跳ね起き、ひと飛びで寝台のそばへ行ったからである。老人は悲しげな、恐ろしげな様子をしていた―顔はほとんど黒ずむくらいに充血し、両眼はしらじらと光り、両手で胸をつかみ、唇には泡を吹いた。 一瞬、乳母は老人をほっておいて、ドアへ走り、バタンと突きあけた。そして「誰か来て」と高く叫んだらしかった。すぐ寝台へ飛び返えり、夢中で老人を介抱―寝かしたり、そのほかなんでも―するように見えた。女とその夫と五六人の下男が、怖気立った顔で飛びこんで来た。が、この時、老人は、乳母の両腕からグッタリとなって、寝台に滑り落ちた。その苦痛と念怒にひん曲がった顔は、次第におだやかに弛ゆんでいった。 二三分たつと、屋敷の左側を、光が照らし出した。そして炬火をつけた四輪馬車が、玄関口へ乗りつけた。黒い服で、白髪の鬘かをかぶった人物が、すばやく飛び出し、ちいさな革のトランク型の函を片手に、階段を駆けあがった。彼は戸口で、男とその夫人に迎えられた。夫人は両手でハンカチを握り締め、男は悲劇的な顔をしていたが、自制心― 93 ―

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