畑耕一翻訳 M・R・ジェイムズ怪談集
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ペロン ぶし彼は考えた。だが、部屋々々のうちらでどんなことが行われたか―彼の観察をさまたげるものは、べつになかった。 二つの部屋に灯火がともった。一つは一階でドアの右手にあたる部屋、一つは左手の二階の部屋―前のはパッとあかるく、あとのはやや暗かった。下の部屋は食堂だった。食卓が一つ置かれていたが、食事はもうすんで、ただ酒をついだ幾つかのコップが、残されていた。青繻子の男と紋織の女だけが部屋にいた。二人は食卓にぴったりならんで肱をつき、しきりに話しこんでいた。おりおりなにか耳を澄ますように話をやめた。一度男は立ちあがって窓をひらき、首をつき出して耳に手をあてた。食器棚には銀の燭台があって蝋燭がともっていた。男は窓からはなれたが、そのまま部屋を出て行くように見えた。女は蝋燭を手にして、なお立ったまま耳を澄ましていた。彼女の顔には、彼女にのしかかり続ける或る恐怖に耐えようと、懸命に努力しているような表情があった。憎悪にみちた、無作法げな、平べったい、ずるそうな顔だった。そこへ男が戻って来た。女は彼からなにか小さな物を受取り、急いで出て行った。ほんの一二分の間だったが、男の姿も見えなくなった。正面のドアをそろりそろり押しあけて、彼はそとに踏み出し、階段の上に立ち、あちこち見わたした。それから灯火のともっている二階の窓へ眼をそそぎ、拳こを振った。 こんどは二階の窓を語る番である。その窓越しに、一つの四柱寝台が見えた。一人の乳母が肱掛椅子によっかかっていた。たしかにグッスリ眠っていた。寝台には、一人の老人が寝ころんでいたが、眼をあけて、どうやら心配そうに、その指先を右に左にうごかし、掛蒲団の上でピアノの調子をたたいていた。 寝台のむこうのドアがあいた。天井に灯火が映って、あの階下の女がはいって来た。彼女はテーブルに蝋燭を置き、炉辺へ行って乳母を揺り起した。彼女の手には、栓をぬいた古めかしい酒瓶が、にぎられていた。乳母はそれを受取って、小さな銀のソース鍋にいくらかを注ぎ入れ、テーブルの上の薬味台から小量の香味と砂糖を加え、火にのせた。この間に、寝台の老人は、よわよわしげに女を手招きした。ほほ笑みながら彼女は老人のそばへゆき、脈でもみるように手首をとった。そしていかにもびっくりしたように、自分の唇を咬んだ。老人は、心配そうに彼女を見やった。― 92 ―

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