畑耕一翻訳 M・R・ジェイムズ怪談集
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それはこう立っています。―もし私が、この由来を、ほんのもすこし知っていたら―』 『或は、ほんのもすこし知らないでいたら―』と、ディレット氏は横鎗を入れた。 『は、は!どうとも御冗談をおっしゃるがよろしい。いや、だが、私が申しているように、もし私がこの品のことを、ほんのもすこし知っていたら、この品には、私が要求している値段どころじゃない筈です。―よしんば誰かが、この品を、どこからどこまで正真正銘のもんだと見ぬいたにしましても、そしてまた、私の仲間の誰も、この品がこの店に来て以来、指一本触さわることさえ禁じられていたにしましても、ね。』 『で、どうなんだい。二十五ギニイでは?』 『その三倍なら、差上げますよ。七十五ギニイ。』 無論、この二人の間に、値段のあゆみ寄りはあった。正確なところは、どうでもいいことだが―私は、六十ギニイだったと思う。とにかくこうして、三十分後には、その物体は包装され、一時間もたたぬうち、ディレット氏はそれを馬車へ抱えこみ、立ち去ってしまった。 チッテンデン氏は、小切手を手にしながら、ニコニコしてディレット氏を、戸口まで見送った。そしてなおニコニコして、居間へ戻った。そこでは妻君が茶の支度をしていた。彼はドアのとこで立ちどまった。 『やれやれ、厄介払いしたよ。』と、彼は言った。 『あり難いわ!』と、チッテンデン夫人は、茶瓶を置きながら言った。『ディレットさんは、よろこんでいらしって?』 『うん、大よろこびさ。』 『いや、どうだかな。あの人は悪い男じゃないぜ。』 『そりゃそうかも知れないけど、あの人は、ちょっとやそっとの事に驚くような人じゃないわ。』『ほかの人よりも、ディレットさんだったことが、まだしもよかったわ。』― 87 ―

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