畑耕一翻訳 M・R・ジェイムズ怪談集
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牧夫は笑った。『とんでもねえ。このあたりで嘆きの井戸をつかうなんて、人間は申すに及ばず、羊に至るまでも、そんなこたぁしねえ。わしがここで生れてこのかた、そんな真似をした者ぁ、だぁれもいねでがすよ。』 『ようし。そんなら今日、そのレコードは破られっちまうだろう。』と、スタンレイは言った。『というのは、この僕が行くからだ。僕が行って、井戸の水を汲んで、お茶をわかすからだ!』 『なんてえことを!坊っちゃん!』と、牧夫は、飛びあがるような声で、『そんな事を言っちゃなんねえ。先生さんは、あんたがたに、あのそばへ行っちゃなんねえって、注意なさんなかったかね?注意しなすった筈だ。』 『注意はなさったよ。』と、ピップスケークが言った。 『黙ってろ。馬鹿!』と、スタンレイは言った。『井戸はどうなんだい?水はよくないんかね?なんにしたって煮さえすりゃあ、万事オーライさ。』 『水もだが、ずっとよくねえもんが、あすこにあるらしい。』と牧夫は言った。『まあ、わしの知ってる限りじゃあ、わしの老いぼれ犬だってあすこへ行こうたあしねえだよ。わしにしたって、ほかの誰にしたって、あの事じゃあ、頭んなんか、ちっとぐれえ脳味噌をもちてえもんだ。』 『もっと馬鹿なるなれだ。』と、スタンレイは、すぐぞんざいな、文法はずれな言葉でいった。そして、『誰かあすこへ行って、なんかひどい目にでも会ったのかね?』 『三人の女と一人の男がね。』と、牧夫は重々しく言った。『まあよくわしの話を聞きなさるがええ。わしはこのあたりを知ってるが、あんたがたは知っちゃいなさらねえ。だからわしはくわしい話をすることができるのだよ。今まで十年が間、羊一匹あすこの野で飼われたこたあねえし、作物一つあすこで刈り取られたこたあねえだ。―しかもあそこはええ土地なんだよ。ここからだって、よく見える筈だ。あすこは生苺と吸枝といろんな草の蔓や殻で、荒れ放題になってることがね。』と、かれはウィルフレッド・ピップスキークのほうを向いて、『坊っちゃん。あんたは望遠― 53 ―

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