畑耕一翻訳 M・R・ジェイムズ怪談集
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ウィッチ小屋に閉め込み、荘園では一匹の羊も飼わないことにしたのだった。それは、夜、屋内に置きさえすれば、なにも襲撃されたことがないのに気づいたからだった。それ以後、この斃死は、野鳥か野獣にかぎられた。しかし、なんにしても斃死の徴候については、はっきりした報告もなく、徹夜の見張りも、充分な手がかりがないので、筆者はサッフォークの農夫達が“キャスリンガム病”と呼んでいるものを、これ以上長々と語ることはやめよう。 さきに言ったように、マシュウ卿二世は一七三五年に死んだが、当然その令息のリチャード卿が跡目を継いだ。教区の教会堂の北側に、大きな家族席を造ったのは、この人の時代だった。彼の考案はいかにも大きなもので、彼の思惑通りにするには、教会堂の不浄地にある五六の墓が、邪魔になるほどだった。この墓の中には、あのマザーソール夫人の墓があった。その場所は正確にわかっていた。これはクローム氏が作製した教会と墓地の計設のノートのおかげである。当時まだ少数の人達はマザーソール夫人のことを記憶していたのだった。しかも意外の念と不安が強められたのは、発掘してみると、夫人の棺はほとんどもとのままで破損していなかったが、中の屍体は骨も、塵っ屑一つあとかたなく失せていたことだった。実に不思議な現象である。夫人が埋葬された時、墓掘り泥棒がねらうようなものは、一つもなかった。そして解剖室用に供する以外には、屍体を盗むという合理的な動機を想像することはできなかった。 この出来事で、魔女裁判の話や、四十年間も地下に眠っていた魔女の業績の話やが、再びしばらく流行した。リチャード卿は棺を焼き払えと命じた。多くの人々は命令通りやってのけたが、ずいぶん向う見ずだと考えた。 リチャード卿が悪質の革新家だったことは事実である。卿の時代以前、ホールは冴えざえした赤煉瓦の、美しい一廓だった。だが卿は、イタリアに旅行して、イタリア趣味にかぶれてしまった。そして、先人よりも金銭の貯えが多かったので、イギリス式の建物を見ると、そこへイタリア宮廷式の建物を遺のそうと決心したのだった。だから化粧漆喰家族席を設けるため、発掘されるべき墓が、有名な魔女の墓だとわかった時、村では、かなりな興味の的となった。こスタッコ ― 17 ―

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