畑耕一翻訳 M・R・ジェイムズ怪談集
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『なんか知ら?』と、彼は額の冷汗を拭きながら、やっと口を切った。『恐ろしい!いつだか一度あれを聞いたことがあります。だが、私は猫の仕業だと信じていたんです。』 『気が狂っているんだな?』と、アンダーソンは言った。 『きっとそうです。まあ、お気の毒な!あんないいお客さんで……噂によると、家業には大変成功した人で、そして、育てあげるべきお子供さんもあるとのことで……』 ちょうどその時、たまらないようなノックがドアにしたかと思うと、そのノックした人は、許しも待ちきれない風で、飛び込んで来た。それはあの弁護士だった。―ふだん着のままで、ひどく髪を振りみだして、そしていかにも憤然とした様子で。 『ごめんなさい。』と、彼は言った。『どうか、おやめくだされば、まことにありがたいのですが―』 ここまで言いかけて、彼は唾を呑んだ。というのは、前にいる二人が二人とも、騒ぎの責任者でないことが、あきらかだったから。ところが、ちょっとやんだ騒音は、また一層あらあらしく増大した。 『だが、いったいまあこれは、どういうわけなんです?』と、弁護士はカッとなった。『どこだ?誰だ?私は気が変になっているのかな?』 『そうですよ、イェンゼンさん。あの声は、隣りのあなたのお部屋からではないですか?猫か、それとも煙突の中に、なにか詰っているのじゃないですか?』 これはアンダーソンが、言おうと思いついた最上の言葉だった。そしてそう言った時、その言葉は無駄だとわかった。あの恐ろしい声を聞き続けることは、とてもたまったものでなかった。彼は、椅子につかまって冷汗びっしょりに震えている、旅館の主人の、茫漠たる蒼白い顔を見やった。 『猫や煙突に、なにができるもんですか。』と、弁護士は言った。『できませんとも。しかも私の部屋には煙突なん― 128 ―

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